“在日論”と呼ばれる分野がある。論文・エッセイ・ノンフィクション作品等からなるこの分野に特徴的なのは、在日韓国・朝鮮人の犠牲者性と日本国の暴力性を執拗に語り続けるという態度で、語り口には無論、ある程度の多様性があるが、“在日犠牲者論”の性格を逸脱する例は少ない。この犠牲者論的在日論、単行本だけでも数百点に上ると思われるが、1冊突出した本がある。朴慶植(1922-1998)が1965年に刊行した『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)がそれで、日本の“罪の政治学”においてこれだけの影響力を発揮した本はない。この本が存在しなかったら、“戦後補償訴訟”を知識人や弁護士たちが提起することも、また『国際労働機関(ILO)』のような国際機関に朝鮮人・中国人の強制連行や強制労働の問題が提訴されることもなかったであろうと、朴の後継者の1人である歴史学者の山田昭次は言うが(※『在日朝鮮人史研究』第28号、1998年12月)、同感である。とりわけ1972年、『朝鮮総連』がこの本を媒介にして日本人に呼びかけ、朝鮮人戦時労務動員の調査・発掘を始めたことの意義は大きい。それは軈て、様々な論稿や著書や史料集を生み出すと共に、強制連行論の大衆化に貢献するのである。朴は当時、朝鮮大学校歴史地理学部の教員。この本は、朝鮮と日本の友好親善と連帯をより強化する為の1つの材料として纏めてみたものだという。よくある党派的な本の1冊であることがわかるが、しかし、これは並みの党派的な本ではない。朴は、“朝鮮人強制連行”という熟語が日本人の心に集団的な後ろめたさの感覚を植え付けることを直感した人であると共に、その物語を作った人でもある。


ところで、この“朝鮮人強制連行”という熟語、1980年代以後は学校教科書にも記載されているから、価値中立的な歴史用語と考える人がいるかもしれないが、とんでもない。『朝鮮人強制連行の記録』のまえがきの末尾で、朴はその執筆意図をこう記している。「在日朝鮮人が過去どのような苦難な道を歩いてきたか、特に太平洋戦争中の朝鮮人強制連行の問題を通して、帝国主義侵略者の正体を明らかにするとともに、在日朝鮮人の民主主義的民族権利を守るために、また帝国主義侵略者からうけた思想的残滓を少しでも除去し、朝鮮と日本の友好親善、真の平等な国際的連帯のために本書がいくぶんなりとも役にたてばと念願している」。この文から明らかになるのは、この本が歴史の本であるとしても、極めて政治化した歴史の本であるということである。実際のところ、朴が試みたのは、嘗て“内地移送”・“集団移入”、或いは単純に“引率”と言われていた事象を、“強制連行”というおどろおどろしい言葉に置き換え、それに見合う事例を次々に提示してみせたということである。朝鮮人強制連行論とは、端的に言って、戦時期に朝鮮人の男たちが炭鉱や建設現場で経験した犠牲者性と、日本国の加害者性や暴力性を語るものである。しかし、その犠牲者性とは、戦場に駆り出された日本人の男たちを代替する性格のものであったことを忘れてはならない。朝鮮人にも志願兵制度はあったが、徴兵制が適用されたのは戦争末期の1944年9月になってからのことだ。つまり、朝鮮人強制連行論とは、朝鮮人の男たちが炭鉱や建設現場に駆り出されていたまさにその時間に、日本人の男たちが戦地に赴いていたことには触れないまま、死と隣り合わせにいた兵士たちより、鉱山や建設現場で苛酷な労働に従事していた朝鮮人たちの犠牲者性を語るのだが、これを私たちはフェアな態度と見做すことができるだろうか? 初めて『朝鮮人強制連行の記録』の本を見かけたのは1969年、四ツ谷の書店であったが、買おうとは思わなかった。そのおどろおどろしいタイトルに恐れをなしたということもあるが、どこか他人事のようにも思えたからである。その時にはよもや、この朝鮮人強制連行論が軈て日本の学校教科書に記載され、日韓のみならず、世界中のメディアや学界や官僚たちの標準的な歴史観になろうとは想像もしなかった。今思うに、これは自分が生きている時代に経験した殆ど奇跡のような出来事であった。この本の成功の秘訣は、何よりもそのネーミングの妙にあったと思う。“朝鮮人強制連行”とは、日本の尊厳を傷付ける烙印語の性格を持ちながらも、日本人の心に集団的な後ろめたさの感覚を植え付ける道徳語の性格も備えている。


というと誤解を招きそうだが、“朝鮮人強制連行”の熟語は朴が発明したものではない。それ以前に“中国人強制連行”の熱語が既にあり、『世界』1960年5月号には『戦時下における中国人強制連行の記録』が掲載されていて、朴はそれに「すごく刺激された」というから(※朴鉄民『在日を生きる思想』-東方出版・2004年)、朴の脳裏に“朝鮮人強制連行”の熟語が閃いたのはその時であったのだろう。とはいえ、“朝鮮人強制連行”の熟語を最初に使ったのも朴ではない。藤島宇内の『朝鮮と日本人』(※『世界』1960年9月号)には“朝鮮人強制連行”の熟語が既に使われており、この論考にはその後、強制連行論の定番になる寝込みを襲い、畑仕事をする農民を狩り出すという事例も記されている。藤島は、1960~1970年代にかけての日本における反韓親北的コリア論の第一人者であったが、強制連行論の定番になる事例というのは、鎌田澤一郎の次の文を部分的に引用したものである。「もっともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるに従って、朝鮮にも志願兵制度が敷かれる一方、労務徴用者の割当が相当厳しくなってきた。納得の上で応募させていたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面(※村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲い、或いは田畑で働いている最中にトラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすという乱暴なことをした。但し、総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺う朝鮮出身の末端の官吏や公使がやってのけたのである」(※『朝鮮新話』1950年、320頁、下線筆者)。


6代目朝鮮総督(※1931~1936年)・宇垣一成の私設秘書や政策顧問を務めた鎌田は、宇垣の農村振興運動の継承を約束しながらも、それを反故にした南次郎総督(※1936~1942年)に何か怨嗟の感情を抱いていたような人で、上の文も南次郎の“もっともひどい”事例として語られたものである。それはともあれ、鎌田の文は日本の朝鮮統治の暴力性を示す格好の事例として、よく引用、ないしは借用されていく。朴慶植・姜在彦『朝鮮の歴史』(※三一書房、1957年)や『日本残酷物語』(※第5部、平凡社、1960年)がその初期の例であるが、藤島の論考も含めて、上の下線部分は伏して引用されるのが普通のようである。加害者日本人と被害者朝鮮人の図式に噛み合わない言葉や事例には言及しない、若しくは消し去るという態度であるが、これこそが朝鮮人強制連行論の無数にある方法論的・倫理的問題の1つなのである。では今日、朝鮮人強制連行論がいう朝鮮人たちの犠牲者性や日本国の暴力性を、当時の朝鮮や日本の新聞はどのように報道していたのだろうか? それが今回のテーマで、先ずは1939年9月に始まる戦時動員の開始を伝える朝鮮紙の記事である。戦時動員が始まると、写真館と理髪店が忙しくなることを教えてくれる記事もある。“強制連行”ならぬ、“引率”という言葉が使われている記事もある。「全羅南道、高興からも労働者多数を募集、北九州の炭鉱に行くことになっていて、当地では、引率者が引率し、去る28日に故郷を離れ、労働現場に向かって出発したが、見送りのために、一時、町が混雑した」(※“北九州行労働者 28日高興から多数出発”-東亜日報1939年11月30日付)、「慶尚南道、昌寧郡からは少し前、多くの農業労働者を日鉄鉱山に送られたが、去る12月11日、今度は多くの者が貝島鉱山に送られることになった。突然訪れた寒波のなか、一行は郡守・署長の訓示を順に聞いた後、見送りのため20里(※朝鮮の1里は約400m)も30里も離れた故郷からやってきた年老いた両親や若い妻子たちの涙を振り切り、数台の貨物自動車に乗り、見る目も痛ましく出発したという」(※“昌寧労働者多数貝島鉱山へ出発”-東亜日報1939年12月14日付)、「慶尚南道居昌では、北朝鮮をはじめ、満州や日本に行く労働者が増えている昨今、今回は日本内地から直接人が来て、多数の労働者を募集。去る13日から3日間は、各所鉱業地帯に出発するというので、指定された某写真館と理髪業者の景気がとても良いというが、農作業に従事する働き手の不足が心配される」(※“居昌労働者多数 内地鉱業地帯に向け出発”-東亜日報1940年2月17日付)。戦時動員計画初年度の1939年、募集人員に対して約2倍の希望者がいたというが、では、日本の新聞は朝鮮人の戦時動員をどのように伝えていたのか? ここでは、動員が他地域より早く進行した北海道と九州の記事を紹介する。この時期には、“朝鮮人”に換えて“半島人”という、当時としては手垢の付いていない呼称が使われていることにも注意されたい。


「本道(※北海道)三菱系各炭鉱の労働力不足のためはるばる朝鮮より応募した半島労務者第1陣、711名は19日夜、小僧港に入港。【中略】21日は午前6時起床。一同揃いの勤労服を着用して、午前10時より山■社前に集合、川浪鉱業所長、濱美幌署長【中略】等参列の下に厳粛な宣誓式を執行、神官修祓、国旗掲揚、宮城遥拝、国歌斉唱、皇軍感謝の黙祷に次いで、鉱業所長、警察署長、並びに職業紹介署長の各訓示、一行代表文甲祚の力強い宣誓文朗読、一同の皇国臣民としての誓詞斉唱等があり、最後に鉱業所長の発声で天皇陛下の万歳を三唱。一同は皇民の一員として銃後の石炭報国に邁進を固く誓って11時、感激裡に終了閉式した。なお一行は最年少18歳から最年長45歳まで、大部分は20歳代の純良な農村青年であるが、一行の最も聢り者の前記、文甲祚君(※大邱府大明洞出身)は流暢な内地語で、郷里の慶尚北道方面が非道い旱魃で困っておりました矢先、幸いにもこちらの会社の募集がありましたので、炭鉱で働いて一稼ぎしようと思って参りました。私どもの付近からは大分多数の応募者がありましたが、厳選されて一緒に来たのは36名です。その中、約3分の1ぐらいは内地語が判ります。この地に来て会社の待遇が私どもの想像以上に良いのに全く感謝しています。できれば明日からでもよいから一生懸命に働くつもりです。何分よろしくお願いします、と感激して語っていた」(※“採炭救援隊次々入山”-北海タイムス1939年10月2日付)、「稼働者飢饉の緩和策として半島労働者の募集に乗り出した宇部市外、西岐波村長生炭坑はさきに半島労働者100名を募集、目下同坑の訓練所に入所させ、一人前の産業戦士に養成中で、同坑はさらに第2回目の半島人集団募集に着手し、労務課員が渡鮮中であったが、23日朝、滝本労務課員に引率された半島労働者第2陣108名が炭坑から支給された真新しい炭坑帽子に赤襷という時局下の産業戦士にふさわしい紛装で渡来し、下関港からさらに宇部-関門連絡船に便乗して同坑桟橋に上陸した」(※“半島集団労働者続々入り込む”-大阪毎日新聞北九州版1939年10月24日付)。朝鮮人の食習慣について触れた記事もある。「半島人は可愛いものよ。半島人が炭鉱へ入って、よかれ悪しかれ山は賑やかになった。半島人は狡いなどという者は先入観念があったからで、二、三の物議は醸したが、その根を洗えば、他愛のないものであった。今は温和しく皆よく働いている。朝陽を浴び半島人の一隊が国防服リュックに身を固め坑口へ急ぐ颯爽たる姿を見ると…どうしてなかなか立派な産業戦士である。上砂川の飯場は町はずれの第二奥■親和寮がそれだ。記者が訪れると、皆坑内へ入って、数名の炊事当番が湯を沸かしたり、大根を漬けたりしていた。何しろナンバン(※唐辛子)とニンニクがないと、食事ができない連中で、炭鉱ではこれを買い集めるのに腐心している。弁当のお菜には赤ナンバンの太いのを2本ずつつけるが、そのままボリボリやってしまう。大根漬けなどはナンバン粉で赤くなっているのを平気で食べている。ところがニンニクは抗内では臭くて困るから、一緒に働くのは嫌だと内地人坑夫から会社に抗議が出た。会社でその旨を伝えると、代表者が吾々も日本国民です。これから日本の内地の人たちと一緒になって働いて行かねばならんのですから、ニンニクは断然止めますと誓って健気なところを見せた」(※“故郷の妻子に送金”-北海タイムス1939年11月25日付)。


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筑豊の各炭坑に動員された者には、先ずは3ヵ月の訓練期間があったようである。「石炭増産に邁進する筑豊炭田各炭坑の労力不足の緩和策として、半島人稼働者の大量移入が許可され、各坑から係員が渡鮮、大量募集に着手の結果、鞍手郡下では宮田町貝島大之浦炭坑が去る10月、第1次100名移入をトップに、11月更に第2次70余名、第3次100名がすでに到着。いずれも向う3ヵ月間を、基礎教育期間として熱心な訓練を受けているが、さらに24日は貝島鉱の第4次移入者100名が到着、入坑式をあげ、三菱新入坑の第1次移入者70名も近く到着の予定であり、その他、大小炭坑も遠からず大量の半島人稼働者を擁するはずで、かくて各抗とも出炭報国に大車輪を加えるべく準備は着々とととのいつつある。すでに鞍手炭田に移入された半島稼働者は約500名に上り、地下宝庫開発の尖兵として養成されているが、その稼働ぶりは頗る熱心で、炭境当局の期待に背かず、また彼らの真剣な就業は、内地人従業員を刺激して、従来とかく出役歩合が悪かった内地人出役率を向上させたという予期以上の効果もあがり、炭田の増産計画遂行に一億力となりつつある。炭坑はかく優秀な半島人稼働者の腰を落ちつかせるため、3ヵ月の教育期間終了とともに一人前の坑夫として社宅を給与し、郷里から懐かしい妻子家族を呼び寄せさせる方針で、目下大馬力で社宅建築を急いでいるが、稼働者ならびにその家族の内地同化については、直方矯風会がこれを引き受け、移入者は即日新会員として矯風会に入り、生活改善の徹底を期し、内鮮一如の実をあげるべく指導に遺憾なきを期している」(※“増産街道の一線に輝く半島人稼働者”-大阪毎日新聞北九州版1939年11月26日付)。


「石炭増産への救援部隊として颯爽と空知炭鉱界に登場した半島労務者数千名、中には不良分子の扇動による紛争惹起に悩まされた炭鉱もあるが――ここ万字線美流渡の東幌内炭鉱の半島人ばかりは大した張りきりようで、立派な産業戦士として石炭増産への役割を果たしている。1日の労働を終え、夕食後の楽しい団欒の話題は『今日で幾ら稼いだろう』と日一日稼ぎ高の殖えて行くのを無上の楽しみとしている。先月のごときも全1ヵ月も働かぬに、多いのは50円から国許へ送金した程である。『明春は郷里から兄貴や弟を呼び寄せ一家総動員で働くんだ』と楽しい計画をたてているものさえある。『公休日さえ休まずに働く全く100%の稼働率です』と会社側も非常な喜び」(※“半島人稼働率100%”-北海タイムス1939年12月17日付)。“半島戦士 憩の家”と題する『北海タイムス』の記事には、半島美人サービスのニュースもある。「昨秋歌志内に入山した炭鉱汽船空知鉱業所の半島戦士のために稼ぐ反面に、慰安を与えてやらなければならぬというので、同所の幹部が夕張に最近出来たものと同じような“憩の家”を計画中であったが、いよいよこの20日頃から店開きすることになった。これは現在札幌で営業しているものが移転してくるのであって、6名の半島美人がサービスすることになっているが、相当に繁盛するとともに、これによって半島人部隊の稼働力も大いに向上するものと大なる期待をかけている」(※“半島戦士 憩の家”-北海タイムス1940年4月3日付)。北海タイムスの記事は、いずれも『北海道と朝鮮人労働者 朝鮮人強制連行集態調査報告書』(※1999年)から再録した。今日、“朝鮮人強制連行”と言われる事象が、当時どのように報道されていたかの一端を見たが、“朝鮮人強制連行”に連想するおどろおどろしさが無い為に、期待外れの感を抱かれた方がいるかもしれない。何せ、ここには朝鮮人労働者受け入れに気を使う日本人の姿は描かれていても、日本側の暴力性を伝える記事は見えない。「戦時期の国策については協賛的記事が多くなる」という側面もあるだろう。しかし、これらの記事が教えてくれるより重要なことは、“朝鮮人強制連行論”なるものが偏りのある妄想に過ぎないのだということであろう。とはいえ、戦時動員が必ずしもスムーズに進行していないことを伝える記事もある。帰郷を希望する朝鮮人労働者が、故郷の面(※日本の村に相当)に呼訴状を送ったことを伝える朝鮮紙の記事があったり、賃金支払いや待遇問題で入抗を忌避した朝鮮人労働者に狼狽する会社側の模様を伝える日本紙の記事があったりする。ここに登場するのは、私たちが知っている人間とあまり変わらない日本人や朝鮮人たちであり、彼らは急変する状況に戸惑いながらも、それに適応しようとしている。強制連行論等に登場する朝鮮人や日本人が、どこか現実離れした人間の印象を与えるとすると、ここに登場するのは理解可能な人々ばかりだ。


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「本道炭鉱労務者の人的資源充足に一役買って出た半島人は、10月上旬から空知各炭鉱に順次入山中にて、その就業成績は炭鉱当局はもちろん、道庁職業課ならびに各職業紹介所から注目の的となっていたところ、本月中旬から、三菱美唄鉱業所に入山の約300名は入山後、竪坑鉱務所扱いの下に一番方、二番方の2団に分かれ入坑就業中のところ、31日午前6時、突如一番方人坑の150名は入坑を忌避し、午前中入抗の模様なく、これに狼狽した会社側では、極力入坑せしむべく一番方責任者と懇談中である。原因は約束の賃金支払いを拒否せるためらしく、二番方入坑者150名も同一歩調に出るものとみられ、一般従業員から注目されている」(※“最初の話と違う 入坑を忌避する”-旭川新聞1939年11月1日付)。しかし、この時期の日本紙を散見してより印象的だったのは、戦時動員のニュースが、この時期の朝鮮人関係の必ずしも突出したニュースではなかったということである。集団移入の朝鮮人よりは、内地見学にやって来た朝鮮人志願兵のニュースのほうが大きく取り上げられたりするのだが、それはある意味、当然のことであろう。戦時期には、抗夫よりは銃を持つ兵隊のほうが重視されるのだから。では、この時期の日本紙に現れた、より目立った朝鮮人関連ニュースとはどんなものなのか? これは私が偶然目にした記事を勝手に拾い集めたに過ぎないが、多くはこの時期に急激に流入した朝鮮人と日本人との間に起きた事件や出来事の報道である。


「今夏9月末、門司市宏石町李道俊方で、門司署刑事4名が大格闘の末、逮捕留置中の窃盗容疑者、朝鮮慶尚南道晋州生まれ前科2犯鄭寶玉(30)は、20日あまりも絶食をしたりして犯行を自供しなかったが、このほどようやく昨年4月8日、門司市錦町料亭菊乃家で現金960円と貴金属10点(※時価790円)、同年3月13日、戸畑市明治町医師清水泰氏宅で現金900円と貴金属21点(※時価1600円)、本年2月17日、門司市常磐町古物商田中寅次氏宅で現金4770円、貴金属3点(※時価約400円)ほか5件約2万円の窃盗を自白、別府市北新町3丁目に同棲していた内縁の妻吉野夏代(27)名義で5800円を貯金していたこともわかり、18日身柄を小倉検事局に送ったが、同人はこれまで大分・山口・福岡県下各署で十数回検挙され、その都度絶食しては放免されていたもので、また3回留置所を破って逃走したこともある稀代の大賊である」(※“盗んだ5800円別府の女名義で貯金”-大阪毎日新聞大分版1939年12月19日)、「中津市宮島町三共レンタン前通りの橋上で3日午前1時という厳寒の深夜、まだらまだらに残る雪の路上で突如行われた殺人事件――2日午後11時50分ごろ、中津市本町高橋興四朗氏経営のカフェー・ピリケンへ同市栄町高畑、こんにゃく屋重吉五男松井六郎(21)と島田町古物商久恒政道(27)の2人が入って来てすでに相当酔っていながら『酒をつけろ 酒をつけろ』と女給たちを手こずらせた。丁度同じ店内で飲んでいた同市天神町朝鮮料理主人で中津、内鮮同和会の理事長金炳天(33)や同副会長孫万龍ら4人の半島人一行が『この夜更けに12時過ぎて酒があるか…』といったことから4人組対2人の口論となり、両方とも相当泥酔していてはげしくもみあった末、同店の女給たちが一応なだめて松井・久恒両青年を表へ連れ出し、入口の戸に錠をおろしてしまった。しかるに松井は同店の裏側にあたる宮島町へ通ずる台所付近へ取って返し、刃渡り6寸余もある刺身包丁を持ち出して金炳天らの帰途を待ち伏せ、金の左胸部助骨7本目の下を一刺し、即死させた」(※“喧嘩相手の帰途を待ち伏せ刺し殺す 中津市カフェーの惨劇”-大阪毎日新聞大分版1940年2月4日付)。犯罪記事に傾いているので、それ以外のニュースも加える。「鮮童の奇智が心中せんとする両親を救った。17日夜11時半ごろ両親が鉄道自殺をします早く助けて下さいと12、3歳くらいの鮮童が下関署に泣き込んだ。いあわせた署員が駆けつけ、門司税関下関出張所前の線路で、入替え中の機関車に飛び込まんとしている夫婦を危うく救助した。この夫婦は朝鮮慶尚南道生まれ福岡県田川郡赤池町居住、坑夫朴鳳文(39)と妻【中略】(33)で、病苦から心中を企てたものである」(※“病苦の半島人夫妻 飛込自殺を企てる”-大阪毎日新聞山口版1940年7月19日付)、「半島出身の労働者は内地に来ると、すぐに各地を逃げ迴り警察当局を手古摺らせる。10日、東松浦郡入野村の大鶴炭鉱の一半島坑夫、朝鮮から炭坑に来て1週間目に逃走。同夜、唐津署に取り押さえられた。故郷が恋しいと見え『朝鮮に帰してくれ』と11日夕まで大の男が大粒の涙を流し『アイゴー』『アイゴー』と泣き叫ぶ。これには係官もあきれ返り『こりゃソゲン泣くな、お前よりこちらがよっぽどアイゴーだゾ』となだめすかし、同日炭坑経由、朝鮮へ帰した」(※“クリーク網”-大阪毎日新聞佐賀版1940年9月13日)。


上の記事に、大鶴炭鉱を逃亡した朝鮮人坑夫の話が出てくるが、戦時動員記事で意外に多いのが逃走・逃亡記事である。森田芳夫は、「1939年9月から1945年3月に至る集団移入期間中、動員された約60万人の朝鮮人労働者中、半数以上の者が逃亡、又は行方不明になっている」と記している(※『法務研修所報告書』第43集3号、1955年)。逃走・逃亡、或いは替玉の問題は、動員計画初期からの難題だったようで、『特高月報』1939年11・12月分には次の記述がある。「また応募を内地渡航の手段としたる者あり。これらは坑内作業に恐怖を感じたる者等と同様、逃走しつつありて、現在判明せる逃走者は429名の多きに達す。さらに移住朝鮮人中には、他人の替玉となり渡来したる者あり、現在までに発見したる者は121名なるが、なお未発見の者相当ある模様にして…。“他人の替玉となり”とは、日本渡航の為に替玉として募集者の中に潜り込むことで、特高月報はその原因について、輸送にあたる引率者が①朝鮮語を解せざる者多きこと②平素朝鮮人に接したる経験に乏しいために人物の真偽の見分けが困難であったこと③引率者に対する被引率者の数多くして全体に対する注意が行き届かなったこと――の他、「偽名者が巧みに被偽名者の本籍・住所・氏名・年齢その他を記憶しているためである」という。そして、偽名の動機については、朝鮮人に内地渡航の“熱望”があり、募集に応募できなかった者が“氏名を詐称”し、募集者の群に入り混じり、内地渡航を試みるのだという。特高月報にはまた、予め“逃走”を想定して募集に応じる者がいたとか逃走類型が記されていて、①最初より内地渡航の手段として応募したる者②応募後、内地在住の知人その他より渡航後は逃走し来れとの通信を受けたる者③就業地に至る途中、他人より炭坑鉱山等の作業危険なるにより他の有利なる職業に幹旋すべしと誘拐せられたる者④炭坑鉱山等の作業に恐怖を感じたる者⑤炭抗鉱山等の作業の苛酷さを嫌悪したる者⑥募集の際の労働条件と実際とが相違し居るとなす者――の6つのタイプがあるという。今回紹介したのは、“朝鮮人内地移送計画”が実施された1939~1940年にかけての新聞記事であるが、朝鮮半島から日本列島へという人流はそれよりも早くからあった。渡航制限があっても、朝鮮人は内地にやって来たのであり、それは戦時動員の時期にも途切れることはなかった。というより、動員の時期には、それを利用して、日本への無賃乗車を試みる者もいたのである。この時期の、特に朝鮮の南部地域に住む青壮年たちにとって、“内地”とはライフチャンスの地であり、多くの朝鮮人が内地への渡航を試みたのである。 (首都大学東京名誉教授 鄭大均)