朝鮮の司法

『国民の歴史』 西尾幹二 平成11年 扶桑社

当時の朝鮮は、両班、中人、常民、奴婢の厳然たる四つの身分制があった。
両班の横暴には目に余るものがあり、
下の階級の者に対し生殺与奪の権を持っていたとさえいわれる。

朝鮮民衆は日本統治時代になって、
日本警察による両班取り締まりを大いに感謝したほどだったという。

ただし、朝鮮人の補助憲兵や巡査が日本の権力を借りて
今度は宿怨を晴らす恐ろしいシーンを展開し、
のちの日本に対する悪感情を生んだ。いかに横暴だったか、
驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる。
(今村鞆『歴史民俗朝鮮漫談』昭和三年)

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『朝鮮紀行』 イザベラ・バード 1897年 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫

朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、
新しい体制にとってまったく不都合なもので、
改革のひとつひとつが憤りの対象となった。

官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、
ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、
全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、
改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。

政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、
どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、
首都と同質の不正がはぴこっており、
勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。

このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、
これは困難きわまりなかった。
名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。
公正な官吏の規範は存在しない。

日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。
盗む側と盗まれる側である。

そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。
「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで
全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。

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『歴史を偽造する韓国』 中川八洋 2002年 徳間書店

◆日本型「司法」への中傷と誹謗

近代司法制度がすでに確立していた日本にとって、
李氏朝鮮を引き継ぐ「旧韓国」の司法は
「近代以前」というより「文明以前」であった。

スウェーデンのジャーナリスト(アーソン・グレブスト)が
1904年に朝鮮国内を旅行取材した『悲劇の朝鮮』は、
監獄内を自分の眼で見たときの笞刑(ちけい・ムチ打ち刑)執行の光景と
拷問死刑の光景を記録しているので、この「文明以前」がよくわかる。

拷問死刑は、まず棒を死刑囚の脚の問にはさみ
死刑執行人がその端に体重をかけて死刑囚の脚の骨を砕く、
次に腕と肋骨を折る、最後に絹紐で首を絞める、というものであった。

死刑執行の前に、わざわざ残酷にも全身の骨を砕いたり折るという拷問など、
当時の日本では信じられないことであった。
が、そのような野蛮な残虐性が朝鮮であった。

マッケンジーの『朝鮮の悲劇』(原著1908年)も次のように記しでいる。
死刑囚でない単なる禁固刑のものも、
監獄の都合で殺すのが朝鮮の実情であった。

「監獄は呪詛のまとであり、拷問は自由に行われ、周期的な監獄清掃に
際しては一時に数十名の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された。」

しかし、当時の実態をひたすら歪曲する研究者があとをたたない。
例えば、朝鮮総督府が定めた1912年の朝鮮笞刑令が
「朝鮮人に限り之を適用す」(第13条)であることをもって、
朝鮮人と日本人とを刑罰上で差別するためにこの笞刑令を定めたとか、
異民族弾圧法であったとか、あらん限りの中傷を加える。

が、笞刑は、李朝の太祖李成桂以来、数百年間つづいた伝統的な刑罰であり、
それは「旧韓国」の『刑法大全』(1905年〉にも定められている。
しかも『刑法大全』は杖刑を廃止し、
そのぶん笞刑を広く適用する定めとしている。

朝鮮が日本国に併合された以上、
日本国の刑法が等しく適用されねばならず、『刑法大全』は無効となった。
だから笞刑もなくすべきであったというのであれば筋が通る。

しかし、日本は3ヶ月以下の懲役や百円以下の罰金となる、
朝鮮の貧民の犯罪にいたく同情して、
つまり例えば数日間であれ刑務所に収監されれば家族が飢餓に瀕する、
あるいは数円ですら罰金を払うとなれば
僅かな財産のすべてを失う事態を考えて、
朝鮮の伝統的な笞刑をもって罰としたのである。
懲役や罰金を見逃す便法であった。

このため、朝鮮笞刑令第4条は、
「罰金1円を笞1、懲役1日を笞1」に換算する旨を明記した。

当時の朝鮮の最も貧しい階層では、家族4名、5円あれば1ヶ月は食べられた。
それほど高額な1円が笞1で済むのである。
すなわち、朝鮮笞刑令とは「大岡裁き」で、
刑罰を温情的に軽滅する定めであった。

また、「笞刑令施行規則」(1912年)の第1条によって、
笞刑執行前に医師が受刑者の健康を診断することが定め、
笞を小さくし、執行中に受刑者に飲水を与えるように定めた。
笞刑令第5条をもって、女性や16歳未満の男児への笞刑を禁止した。
それ以前の朝鮮では姦通罪の女性に対して苛酷な笞刑を行っていた。

また、笞の長さは1尺8寸(55cm)、
厚みは2分5厘(7.6mm)となった(「施行規則第11条」)。

痛みを、それ以前の朝鮮笞刑よりも数分の一に下げるためであった。
臀部とはいえできるだけ肉体に傷をつけないように配慮したのである。
それ以前の朝鮮の笞は長さは3尺5寸(106cm)、
厚みは2分7厘(8.2mm)であった。

日本の笞刑と、それまでの朝鮮の笞刑は
考え方においても厳しさにおいても全く似て非なるものであった。

しかし、この笞刑令をもって、
「朝鮮民衆の独立運動に対する抑圧」の法律であったなどと、
荒唐無稽な珍解釈をなす研究者が多い。

あるいは、「反日」的言動をなした者を弾圧するために、
この笞刑が実施された、などという創り話すら流布している。
(朝鮮の伝統であった笞刑制度は1920年に廃止された。)

朝鮮人の残虐性は、日本人にはとても正視できない。文化の相違であろう。

例えば、死刑に際して面耳それぞれに矢じりを突き刺して首を刎ねるし、
首を切り落としたあと手足をバラバラに切断したりする
(シャルル・ダレ「朝鮮事情」)。

福澤諭吉を始め日本に多くの知人をもっていた金玉均が
1894年3月に上海で暗殺されたあと、
翌4月、朝鮮政府はその遣体に対して首を刎ね、四肢を切断して、
胴体を漢江に棄て、頭や四肢を京畿道の竹山に捨てたという。

日本が定めた笞刑令(1920年に廃止)を中傷し歪曲する暇があるなら、
残忍な刑罰や不法・不正だらけであった朝鮮司法について、
ありのままの正しい歴史を明らかにすべきであろう。

◆監獄(刑務所)の文明化

朝鮮の刑務所(監獄)の、不潔と残酷さは、言語に絶するものであった。
食事はおかずなしの雑穀のみであった。
さらに、監獄の狭さから囚人数を滅らすために、
獄吏が勝手に殺害して「処理」していた。

日本は1909年以来、それを人道的な日本並みに大改善していったのである。
総工費30万円をもって1910年に起工し1912年に完成した、
清潔で近代的な京城監獄(のち西大門刑務所と名称変更)は、
朝鮮の受刑者にとって地獄から天国に引越しをしたようなものであった。

国分三亥( こくぶさんがい、1908年に「旧韓国」の検事総長、
のち統監府・総督府高等法院検事長)は、
朝鮮には司法はなく行政(警察)の一部であったと、
次のように回想している。

「監獄は独立して存在しないで、全く警察の一部にすぎない…。
(1908年になって)日韓協約の趣旨に基いて(旧韓国政府は)司法機関を
創設して監獄は司法部に所管を移され…たけれども、
……(京城の)鐘路監獄のごときさえも、未決・既決の区別はほとんどなく、
……獄内は狭隘陰鬱にしてほとんど土窟のやうであり、
乱雑と不潔とは実に想像も及ばぬほどでありました。」
(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)

柿原琢郎(1920~22年の総督府監獄課長)は、上記と同じ座談会で、
平壌地裁次席検事として実際に訪れた(韓国併合直前の)平壌の監獄を、
次のように思い出している。

「狭隘なる監房は到底それに応ずることできず、
ただ無理押しに押し寵めてゐました。1坪に15、6人も押込むありさまで、
在監者(は同時に横臥睡眠をとれないので1日に)3、4回交替にて
横臥せしめた。作業上の設備も被服交換の準備なく、
…終日終夜着のみ着のままで在房してゐますから、
監内の熱気と臭気とは短時間の参観にも堪えられませんでした。」
(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)

しかし、日本の努力で1910年末には
すべての朝鮮の監獄での1坪当りの収監者数を
3分の1の「約5人以内」に下げたのである。
そして、1913年頃には、それが「約2.9人」まで大改善された。
(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)。
「畳2枚に3名」であるから、いつでも横になって寝ることが可能になった。

刑務所が受刑者サイドでこれほどの改善がなされたのは、
1919年からの新しい総督(斎藤実)のもとで
230万円の巨額で監獄の近代化と大拡張を実施したからであった。

ついでに、朝鮮併合直前の朝鮮の裁判所の実情を、
旧韓国政府の首席「法務補佐官」であった中村竹蔵が拷問のことを
回想しているので紹介しておきたい。
裁判所すら拷問するのが、朝鮮の実情であった。
中村竹蔵は1907年に平理院(「旧韓国」の最高裁判所)に配属となり、
ここですら拷問が実施されているのを目撃したのである。
「平理院では法廷の取調の際にしばしば拷問を行ふことがあつたから、
たびたび院長(李允用。李完用の兄)に対して
之を廃止するよう厳重に要求すると、
…院長は午後遅くなって出勤するようになった。
……私が退庁するのをまつて夜中に依然拷問行ふことが判り、…」
(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)

当時の朝鮮では刑事被告人だけでなく、
なんと民事でもその被告を拘留し投獄し拷問していた。
島村忠次郎(1907年、水原の京畿道地方裁判所の「法務補佐官」)
は回想する。
「私の在職中の出来事で大きなものと思ふのは拷問禁止のことであります。
私は着任後しばしば拷問を行ふのを目撃しました、
…その禁止方を伊藤博文総監に具申しついにそれが法令となって表われた。」
(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)

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【産経ニュース 2015.8.12 16:24】



■戦後~現在(1945年~)

【戦後韓国の虐殺事件】(合計30万人~100万人)。

●1945年8月21日、ハンセン病院虐殺事件。

●1948年4月、済州島事件(済州島4.3事件)
政府関係者が口にしているのは死者六万人~七万人。
反体制の人々は死者十万人以上を主張していた。
アメリカ人学者ジョン・メリルは
「正確な事は解らないが、死者は3万人あまり」と記している。 

●1948年10月、麗水・順天反乱事件。

●1950年夏、国民保導連盟事件。
韓国各地で、無抵抗で非武装の国民、合計30万人が虐殺。
殺されたのは国民保導連盟の人達。
国民補導連盟とは、今まで厳罰一辺倒だった共産分子への対応を改め、
自首期間中に、共産党の甘い言葉に騙された人は、
自首して国民保導連盟に所属すれば、罪は問われない、としたもの。
しかし、人民解放戦争(朝鮮戦争)勃発と共に、
韓国人によって全て虐殺された。

●1950年7月はじめ、大田刑務所虐殺事件。

●1950年冬、国民防衛軍事件。
死者 数十万人。(詳細は、東亜日報にて連載された。)
通称「死の行進」「死の南下」数十万人が死んだと言われている。

●近年の北朝鮮 (脱北者) 【凍土の狂気が続く金正日強制収容所】
ネズミを焼いて食べ、シラミのわいた毛布で寝る、死ぬよりつらい。
木から線路に落ちた栗を拾おうとトロッコを止めた運転手(収容者)を、
警備員が射殺した。
撃たれた運転手は死んでもまだ栗をしっかり握りしめていました。

ある時、男の収容者が空腹に耐えかね、
雄牛のテール(尻尾)でつくった鞭を口に入れたら、
たまたま警備員に見つかった。
彼は叩かれたうえに、便所の腸内寄生虫を食べさせられ、
2日後に息を引き取った。

悲惨な話は山ほどあります。

牛の糞の中に潰れていない豆があると、みんな我先に奪い合います。
死人が出ると着ていた服を取り合い、生きている者が着る。
人間の住むところではなかった。





日本人より偉かった朝鮮人

日本に併合された朝鮮は、植民地の正確が全くない。
その一つが日本人を部下とした、統治(支配)する側に
エリート朝鮮人が無数に存在した事実である。

例えば13の県(朝鮮では「道」)知事のポストの
ちょうど4割は朝鮮人が任命された。
つまり、県庁の幹部には多くの日本人官吏がいたので、
これら日本人官吏は朝鮮人知事に忠実に仕えた部下となっていた。

13道の25年間(1910~1935年)の全知事総数125名のうち、
日本人知事は76名、朝鮮人知事は49名であった。
つまり39%が朝鮮人であった。

江原道の県知事のポストは、歴代、朝鮮人のみによって独占されていた。
(李奎完→元應常→申錫麟→尹甲炳
→朴榮吉→朴相駿→兪星濬→李範益→孫永穆
/1910~1935年・朝鮮総督府三十年史・第二巻 クレス出版)

特殊副知事というべきポストの「参与官」は、
知事に直結して朝鮮の民情を吸い上げ、
具申する任務であるから、13名とも朝鮮人であった。

慶尚北道という県を例にすると、
1932年1月現在、県知事は朝鮮人。
4名の部長(内務部、産業部、財務部、警務部)のうち産業部長が朝鮮人。
この4つの部にいた部長以外の日本人官吏は、194名に上っていた。
つまり、3名の日本人部長もその他の194名の日本人官吏も、
朝鮮人の知事に仕えたのである。 

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歴史を偽造する韓国 中川八洋 徳間書店 より

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朝鮮人には参政権がなかったのか?

朝鮮人の朴春琴が2回も衆議院議員に
当選していたというと驚く人が多い。
それは、「朝鮮人には参政権がなかった」と、
思われているからである。
朝鮮では確かに国勢に関する選挙権は与えられていなかった。
しかし、それは日本人も朝鮮人も同じだったのである。

逆に、内地では朝鮮人にも、参政権を日本人と同等に与えた。
その中で、朴春琴が東京の深川地区から、衆議院議員に、
1932年と37年の二回も当選したのである。

中略

なお桝添要一氏の尊父は、唱和5年、若松市の市会議員に立候補されたが、
その選挙ビラにはハングル文字でルビを振ってあったとの事である。
当時は、ハングルでも投票できたのである。

中略

貴族院議員には、通算10人も任命されている。
まず、朴春琴が衆議院議員に当選した1932年、
朴泳孝が貴族院議員に任命されている。

1945年3月には、選挙法が改正になり、
次の衆議院選挙には、朝鮮にも18人の定員が割り当てられたが、
敗戦で実現に至らなかった。
その改正と共に、貴族院議員には7人の朝鮮人が任命されたのである。
アメリカで黒人に参政権を認めたのは1965年である。
日本は朝鮮人差別を非難されているが、
アメリカより遙かに差別は少なかったのである。

地方政治の面では、併合時、13人の道長官には、
日本人7人朝鮮人6人が登用された。
その後も5-6人が朝鮮人の指定席であった。
日本人の多い市の市長は原則として日本人であったが、
地方の郡守、面長(村長に相当)は原則として朝鮮人であった。

日本の朝鮮統治により朝鮮人は奴隷状態におかれたと非難されるが、
公爵、伯爵、陸軍中将、国会議員を輩出している朝鮮人が
奴隷状態とは、戦時プロパガンダに過ぎない。

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「植民地」朝鮮の研究 杉本幹生著 より

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1933年(昭和8年)4月の群馬県桐生市 市会議員選挙 有権者名簿。
(昭和八年五月の「五」は消印が押され、隣りに「四」と印字されている。)




総督府時代、会社令において差別があったのか?

植民地朝鮮の研究 杉本幹生著 より

会社令による民族企業の抑圧について、教育出版の中学教科書では
<会社の設立も許可制として、
朝鮮人の会社は出来るだけ作らせないようにした>
と書いており、韓国教科書も「民族企業の抑圧」と非難している。

会社令は1910年(明治43年)~1920年(大正9年)4月まで
10年間施行されたものである。

併合時総督府では、以下のように、会社令制定の理由を述べている。
「請願者の多くは[会社とは何か]というイメージすらなく、
利権確保の手段として会社を設立する傾向がなきにしもあらずてあった。
従って、往々狡猾者の甘言に騙され、不慮の損失を招く恐れがあった。
また有望な事業に多くの業者が林立し、無用な競争をし、
多くの損失を招く恐れがあった。」

朝鮮では、併合に伴い、功労者への叙爵、高徳の両班・儒生に対する恩賜金、
孝子・節婦の表彰、孤児・貧民等の救済資金等が支出された。
彼らが、悪質な内地人に騙し取られないよう、
総督府でしっかりチェックしようというのが、
この法令の目的だったのである。

従って、この政令は内地人、朝鮮人を問わず適用された。
この間に設立された会社数は、次表の通りである。
併合前の数字との比較から見て、
極端に朝鮮人の起業が抑圧されたとは思えない。
しかし、このような許可制の下では依怙贔屓が
あったと思われても仕方がない。

会社令による設立会社数
……………日本企業…朝鮮企業…合計 
併合以前……172…………28………200
1910-1915……96…………28………124
1916-1920……302………101………403
小林英夫編、「植民地への企業進出、朝鮮会社令の分析」

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日本の反体制運動への弾圧と、その前後の時代との比較 

■朝鮮総督府の時代には、
1910年の日韓併合から1919年の3.1独立運動に至るまでの10年間を見ると、

1913年の独立義軍府事件、光復団活動。
1915年の国権恢復団中央部事件。
1917年の光復会事件。

など、秘密結社の活動や反抗事件があったものの、
きわめて散発的で、併合に対して行動で反対を示したことは、
諸外国に比べて意外に少なかった。

少なくとも戦後、李承晩政権後の朝鮮戦争を経ての10年間、
あるいは15年間の韓国社会と比べると、
日韓併合後の10年間、あるいは統監府統治からの15年間は、
むしろ「日帝」時代のほうが朝鮮の社会としては安定していた、
と言うべきではあるまいか。

以下の、その前後の時代と比較してみよう

■李朝時代の反体制運動に対する残虐な処刑 

李朝時代の反体制運動に対する残虐な処刑は、
朝鮮総督府時代に比べると、実に想像を絶するものであった。

李朝は19世紀に入ってから、カソリック教徒への激しい弾圧を続けた。

1801年の「(しんゆう)辛酉教獄」で、
清国人宣教師の周文謨をはじめ300余名を処刑した

1839年の「(きがい)己亥教獄」でアンベールら
三人のフランス人宣教師をはじめ200余人を処刑

1846年の「丙午教獄」で、金大建ら20余人を処刑

1866年の「丙寅邪獄」で、ブルマーをはじめとする9人の
フランス人宣教師と、南鐘三ら数千人のカソリック教徒を逮捕、処刑した。

1865年から3年間、約8000余人のカソリック教徒を
処刑という弾圧政策をとった。

■李承晩政権後の弾圧 

戦後の李承晩政権は、
1960年、学生運動(4.19革命)で追われるまで評判は芳しくなかった。

例えば、済州島の「4.3事件」における3万人虐殺はアメリカ軍政支配下で、
アメリカ軍の責にしたとしても、
1951年、居昌(コチャン)事件では、
(市民700余人を共産ゲリラ容疑で虐殺)では、
国会調査委員会の調査では、各地方で虐殺された市民が
8500余人と報告し、立法、司法、行政機関が合同で
「良民虐殺事件処理特別措置法」まで制定した。

1951年、国民防衛軍事件では、
10万人が虐殺され、100万人の第二国民兵を飢えと疫病に追い込んだ。

(ポド)保導連盟事件では、
「ハンギョレ新聞」や「時事ジャーナル」によると
30万人の虐殺があったと告発している。

白骨団(ベッコル)土峰団(トオボン)などの組織が
政敵を暗殺、処刑したり、野党国会議員50余名の強制連行事件、
1956年、野党副大統領、張勉(チャンミョン)の襲撃
1958年、政敵である進歩党党首曹奉岩(チョボンアム)の
スパイ容疑での処刑

南北政権の反体制運動に対する不寛容さは、
総督府時代とは、あまりにも対照的ではあるまいか。

黄文雄著、中国・韓国の歴史歪曲(光文社)より引用


国民補導連盟(国民保導連盟事件)1950年 

1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発するのですが、
この直後に起きた事件ですね。

国民補導連盟とは、
今まで厳罰一辺倒だった共産分子への対応を改め、 
自首期間中に、共産党の甘い言葉に騙された人は、
自首して国民保導連盟に 所属すれば、罪は問われない、としたもの。 

左翼に 転向した人や、その家族たちを 
‘助けて、正しく導く(補導)’という意味を持つ組職で、
事実上、李承晩政権の反対勢力をだった人に、罪を悔やみ、
李承晩に忠誠する機会を与えるというものだった。

左翼組織に入ったことがあると当局が認識していた人々を、
強制的に加入させた組織であり、
あるいはかつて漢拏山に避難して隠れていた人々、
こういう人々が朝鮮戦争のさなかに予備検束され、
韓国人自身の手で処刑されることになっていくわけで、
朝鮮戦争中に左翼関係者を無抵抗で非武装の国民、
合計30万人が虐殺した事件のようです。 

以後、人民軍の占領地で起きた、
仕返し虐殺の原因を提供する事にもなった。

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『朝鮮騒擾善後策-鮮民の求むる所は斯くの如し』 閔元植(びんげんしょく)
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閔妃皇后の血統を引く閔元植は、12歳から日本で学び21歳のとき朝鮮に帰ると
統監府の官吏となり、33歳で高陽の郡守をしていたとき3.1事件に遭遇した。
―――――――
このたび3.1独立運動の近因は、米国大統領ウィルソンの提唱した
民族自決主義を、欧州戦線と何ら関係のない朝鮮にも適用されるものと
する誤解から起こった。

もしくは誤解を装うて、ひょっとしたらうまくゆくかもしれないと
狙った在外朝鮮人の扇動に由来した。

もっと言えば初めから実現できないと知りつつ妄動を企てた感がある。
常識的に見れば、狂気の沙汰と言えよう。

しかし朝鮮人が、日本の統治政策に深い不満を抱いていることは確かである。
この対策を考えねばならない。

日本政府は併合以来、10年近く、朝鮮人の生命財産を保護し、
国利民福を向上させる点に於いて用意周到であった。
運輸交通、金融機関の整備、農工各種の産業の発達等、
旧朝鮮時代の悪政から朝鮮人を解放し、夢想もしなかった恵沢をもたらした。

にも拘らず朝鮮人の性情が偏狭、我執に傾いているためか、
口では感謝しながら、心では淋しさを感じ
朝鮮人の自尊心を傷つけるなどと思う者が多い。

更に朝鮮人は米国を自由郷、現世の楽園のように思っている者が多い。
しかし、そこは白人の天国であって、
有色人種の人権はほとんど認められない。
パリ平和会議で、日本が人種差別撤廃を提唱したが、
オーストラリアのヒュース首相が強硬に反対し、
それを真っ先に支持したのは米国のウィルソン大統領でなかったか。

米国の庇護に頼って光栄ある独立が達成できるなど不可能の事である。
日本統治下の朝鮮人は米国に比べて遥かに幸福であることを認識し、
穏当な方法によって民権を拡大してゆくことを講ずべきである
―――――――
米国大統領ウィルソンの提唱した民族自決主義とは、
第一次大戦時のドイツとその同盟国の支配下にあった東欧地域の
諸民族独立を支援する地域限定のもので、日本とは無関係なものであった。

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■総督府時代、3.1事件の犠牲者数と、公正だった裁判

「植民地朝鮮」の研究 杉本幹夫著 展転社 より改編

3.1事件の犠牲者数と、公正だった裁判および他国の争乱との比較

3.1事件の被害と、韓国側の数字への疑問 

……………朴殷植……朝鮮総督府……憲兵・警察官
参加者……203万名……106万名   
死 者……7509名………553名……………8名 
負傷者……15961名……1409名…………158名 

韓国教科書において、犠牲者は朴殷植「朝鮮独立運動の血史」の
数に拠っているようである。
しかし、朴殷植は亡命中であり、
あちこちでの聞き取りを集計したモノであり、
且つ、本書は反日を煽るための本である。

面(村)毎、月別に集計された総督府の数字より
信頼性が高いとは言えない。

実際、彼は、「今回の独立運動は、
・・・・確実な実態調査を得る事は難しい。況や海外にあって、
ただ新聞報道や個人の伝聞的報告によるモノだけであってみれば、
その事実の困難さは推してしるべきであろう」と、断っている。

海外にいて、新聞報道や個人の伝聞的報告だけで書かれた数字を
疑いもなく教科書に掲げるのは公平さを欠く

官公署の被害(4月25日現在、朝鮮総督府の調査)
面事務所(村役場)全壊19。内、放火によるモノ5、
村役場の一部崩壊(窓ガラス破壊、器物、書類の焼却等)28
警察署、駐在所、憲兵分隊等の全壊16、一部破壊29
郵便局の全壊2、一部破壊9

■公正だった3.1事件の裁判 

5月8日までに
10,268名が送検され、
内3789名が不起訴。
1151名が取調中。
同日時点で起訴されたのは、約半分の6417名に過ぎなかった。

5月20日時点での第一審での
有罪判決は3967名、
無罪58名、
免訴1名。
有罪でも死刑はゼロ、
15年以上もゼロ
10~14年が6名、
7~9年が1名、
5~6年が23名、
3~4年50名、
3年以上の禁固刑は80名と僅か2%であった。

尚、裁判では、
内乱罪の適用が高等法院で却下され、
保安法および出版法違反という微罪となったため、
主犯とされた崔麟ら8人は僅かに3年崔南善ら6人が2年6ヶ月
有罪となったのは37人に過ぎない。

証拠主義に徹して、多くの被疑者が無罪放免となり、
死刑、無期も一人もなく軽い罰の判決しか出なかった。

放火・殺人・建物破損をした罪の3.1事件の被告達には、
控訴や上告も自由にさせた。

このように、朝鮮時代とは違って、
酷刑を嫌う穏やかな日本民族の加罰はきわめて軽かった。
3.1事件をもって、朝鮮総督府が、
他民族を弾圧したと言うのは偽造である。

また、日本人の憲兵6名と警察官2名を殺害し、
放火等による官公署建築物破壊をした朝鮮人の被疑者に対して、
朝鮮固有の拷問は皆無だった。

3.1事件被告の控訴、上告件数等 5月31日現在 
…………………受理件数(人数)…既済……………未済 
控訴 覆審法院…830(3970)………433(1411)……397(1659) 
上告 高等法院…214(588) ………78(169)………136(419) 

4月3日、水原郡雨汀面(村)の花樹里警察官駐在所
(日本人巡査1人、朝鮮人巡査補3人が勤務)の
川端豊太郎巡査を石と混紡で殺した後、
耳鼻などを切断した惨殺事件があったのに、
裁判は報復的な事を一切しなかった。

そして、起訴された52名につき予審を担当した京城地方法務院は
半数にもなる25名を証拠不十分で免訴かつ放免した。

高等法務院に刑法第77条該当として送致したのは27名のみだった。

■公正だった司法の独立 

”司法の独立”は、朝鮮には存在しなかった。
戦後においても朝鮮半島では、司法の独立は完全ではない。
司法への介入は、金大中大統領の時も例外ではない。

朝鮮において、司法の独立は、韓国併合時代の35年間だけである。

<憲兵警察政治>と称する事が如何に不適切であるかは、
憲兵警察のなした逮捕者の半分を不起訴にした数字からも解る。
拷問のない世界最高の公正裁判を受けたと言える。

そして、インドやアルジェリアでの反乱に対する英国や
フランスの事後処理の峻烈さと比較すれば、一層明確になる。

■他国の民族独立運動についての裁判では 

ベトナムの民族独立運動の場合
1913年ハノイや北部・中部の都市で手投げ爆弾を
爆発する事件が続き、この事件で14人が死刑

1930年北部トンキン、イェンバイ近くのフランス軍兵舎の近くに、
革命軍が集結。フランス人将校6人を殺害し武器弾薬を運び出した。
この事件で、40人が死刑、50人が終身刑で流刑、
34人が終身刑で重労働に処された。

1933年には、120人が裁判となり、
8人が無期懲役、79人が5年から20年の刑。

このように、3.1事件の最高刑が
懲役3年とは比較にならない重刑である。

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歴史を偽造する韓国 中川八洋 徳間書店 より

少数の憲兵や警察官だけで、本当に武断統治が可能か? 

韓国中学教科書・国史/憲兵警察統治の項で、
「朝鮮総督府は、行政権はもちろん司法権と軍事権など
すべての権限を持ち、わが民族を弾圧した。
日帝の我が国に対する植民地支配は、
憲兵警察を先頭にした弾圧的な武断統治であった。(中略)
こうした日帝の弾圧的な統治によって活動が難しくなった民族指導者は
海外に逃亡し、その間つづけられた義兵運動もしだいに、
その活動舞台を満州や沿海州に移すようになった。」

朝鮮で1918年11月まで警察業務を行った憲兵につい言及しておきたい。

韓国併合時の憲兵の数は、すべてで僅か2019名であった。
しかも、そのうち憲兵補助員の1012名は朝鮮人であった。
すなわち、日本人の憲兵数は1007名しかいなかった
(水田直昌「統監府時代の財政」友邦協会)。

これが22万平方キロメートルの
朝鮮全土に散らばって配置されたのである。
文民警察官は5693名いたが、
その半分以上の3428名は朝鮮人であった。
このような数字を見ると、
韓国の歴史教科書が小説じみていることが解るだろう。

僅か2019名(その内、日本人は1007名)の「憲兵警察」で
「弾圧的な武断統治」が果たして可能だろうか?

日本の「憲兵警察」は、
当時の朝鮮人全体に受容され、強く支持されていた。
そうだから、このような僅かな数の憲兵が朝鮮全土に
ミニ小部隊ごとに別れて展開しても安全であった。

分遣・派出箇所が563とすれば、
1箇所につき日本人憲兵は2名未満であった。
村の民衆が、ある程度の集団で襲撃すれば、
これらの憲兵を全員殺害することが可能である。

しかし、このようなことは殆ど発生しなかった。
1919年の3.1事件のとき(2名の警官の他)
6名の憲兵が殺害されただけだった。

圧倒的に多数の朝鮮民衆が綱紀の厳正な日本の
「憲兵警察」の方を信頼し協力した。
保護国時代の「義兵」を継承する、
独立運動家の「反日分子」の方を拒絶した。

この「憲兵警察」と普通警察「文民警察」とを合わせても、
韓国併合年の、在朝鮮にある日本の警察力は7712名
(その内、日本人は3259名)であった。

この極端に僅かな数の「警察官」で、朝鮮全土を担当したのである。
日本がいわゆる「独立を奪った」直後の1910年における
この数字「7712名」は、当時の朝鮮人全体が、日本統治を、
面従腹背であれ、重病人のごとき朝鮮政府より遙かにましとして
支持していた歴史事実を鮮明にしている。

併合から一年余りが経った1911年末には、
文民警察官は6006名、憲兵は7749名と増え、合計13,755名となった。

それでも、現在の日本における2000平方キロメートルの
東京都(面積は朝鮮の百分の一、人口は当時1910年頃の朝鮮とほぼ同じ)を
所管する、警視庁の41,721名の警察官(=2000年4月現在)の3分の1である。

朝鮮半島における1911年末の憲兵数
憲兵…将校……下士官……上等兵……憲兵補助員計 
78……693………2525………4453………7749 

朝鮮半島における1910年末の警察官数
役職………日本人…朝鮮人……朝鮮人の割合 
警察部長…13…………0…………0.0% 
警務官……2……………1………33.3% 
警視………30…………14………31.8% 
警部………167………101………37.7% 
巡査………2,053……181………8.1% 
巡査補……0…………3,131……100.0% 
計…………2,265……3,428……60.2% 

【出典】
水田直昌監修『総督府時代の財政』、友邦協会、122ページ

【分析】
・上位三階級のうちの25%は朝鮮人
・日本人警部167名のうち31.8%は朝鮮人警視の部下
・警察官全体の6割が朝鮮人

【結論】
・日本の朝鮮統治は、朝鮮人と共に行っていた。
・警務官、警視などの上位階級にも朝鮮人は登用されていた。
・朝鮮人が上司で、日本人が部下という場合もあった。
・朝鮮半島で取り締まっていた朝鮮人警察官。