「日帝が朝鮮の米を収奪した」

朝鮮半島の日本統治時代、日本が朝鮮の米を略奪して
朝鮮が深刻な食糧難になっていたと韓国は主張している。

以下、『入門 韓国の歴史 国定韓国中学校国史教科書 明石書店』より

―――引用はじめ―――――

「・・・とくに、日帝の彼らの食糧不足を解決するために、
韓国から米を略奪することに力を注いだ。
そのため韓国の農民は彼らが生産した多くの米を日本に奪われ、
飢えを免られなかった・・・・」

―――引用おわり―――――

ところが逆に、
日本から朝鮮へ米を送っていたという当時の新聞記事がある。

朝鮮で米が不足した時は日本から米が送られていた記事もある。

1925年(大正14年)7月25日東亜日報
「仁川玄米上陸~朝鮮に在米が不足するという事を聞き、
門司商人が諏訪産の玄米2千石を朝鮮に送り、近日中に到着」

朝鮮の清津のあたりは寒くて米の栽培が難しいらしいのだが、
下記の記事でわかることは、
少なくとも1939年には玄米ではなく白米が食べられており、
価格暴騰のときには新潟から米を移入して価格を調整していた。

1939年(昭和14年)6月18日 東亜日報
「南朝鮮米断念し、新潟から白米移入。
~在庫米不足と価格暴騰で清津白米恐慌緩和」

以上のように、米の流れは「朝鮮→日本」だけでなく、
「日本→朝鮮」という流れもあったのである。

日本→朝鮮の米の流れについては、
下記の台湾総督府の「台湾の米」という資料から、
「台湾→朝鮮→日本」の米の動向を見るとわかりやすい。

1935年(昭和10年)1月 「台湾の米」 台湾総督府

下記の「朝鮮ヨリノ移入高」は、朝鮮→台湾の米の動向である。

1932年(昭和7年)、4510石。
1933年(昭和8年)、156石。
1934年(昭和9年)、512石。

このように朝鮮→台湾の移入は、ほとんど無かった。

「朝鮮ヨリノ移入高」

逆に、台湾→朝鮮は大量の蓬莱米が移入されている。

1925年(大正14年)、3万3806石。
1926年(大正15年)、5万1427石。
1929年(昭和4年)、12万3861石。

これは1932年(昭和7年)に韓国→台湾に移入された4510石の30倍の量である。

1929年(昭和4年)、台湾→日本に移入された量は218万石なので、
台湾は移出高の95%を日本へ、5%を朝鮮半島へ移出していたことになる。

なぜ朝鮮が台湾から蓬莱米を移入していたのか?

昭和9年の米価

11月
◆内地米→21.11円。
◆朝鮮米→22.30円。

12月
◆内地米→20.29円。
◆朝鮮米→21.81円。
朝鮮米が内地米より高くなったときがあった。
当時の先進国で米を日常的に食べていた国は日本だけなので、
そのとき朝鮮米は「世界一高い米」になっていたのだ。

つまり朝鮮は高値の朝鮮米を商品として日本へ移出し、
自分たちは台湾から安い蓬莱米を移入して食べていたということである。

日本は朝鮮の米を高値で買っていたのであり商取引であった。
事実を知っている韓国人も多いであろうに、
なぜ事実を捻じ曲げるのだろうか?

 朝鮮には李朝時代から「春窮麦嶺」という言葉があり、
米と麦の収穫の端境期である春に、食糧確保に窮するのは慢性化していて、
日本時代になって飢えるようになったのではない。
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『朝鮮事情』 シャルル・ダレ 1874年 金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫

朝鮮では、飢饉が頻繁にみられる。
最も貧しい階級の人びとにとって、それは年に2度、定期的に訪れる。

まず、大麦の収穫を待つあいだの春窮期の6、7月、
次いで粟類の取り入れ前の9、10月である。

金銭は、法外な利子付きでしか借りられず、
わずかばかりの貯えも使い果たした不幸な人びとは、
米やその他の穀物を買うことすらできない。

彼らに残された生きる糧といえば、
ただ塩水で煮つめたわずかばかりの草木である。

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『宇垣一成日記 2』 みすず書房 「関釜連絡船」1988年 金賛汀 朝日選書より

(朝鮮総督の日記から)
咸鏡南北、江原道(朝鮮北部)以外にも飢餓に瀕する者少なからずして
僅かに草根木皮によりて露命を繋ぎあるものを聞き、
痛心に堪へずして当路者に糺せば、彼氏曰く、
「朝鮮にては左様の事は珍しくもなく今頃になれば毎年各地に
現はるる事象である。今ひと月もすれば木の葉も出て草も生ずるから
夫れによりて収穫期まで何とかしていく」
とて深く配慮するの様子もなかりし。(昭和7年3月31日付)
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宇垣総督は慢性的に疲弊した農民の生活を安定させるため、
総督府をあげて農村振興運動に取り組んだ。
李朝時代には、このような国家指導者は存在しなかった。

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李氏朝鮮時代の農民たちの惨状
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『朝鮮』 金達寿 1958年 岩波新書

農村の荒廃はひどく、農民は流民となってさまよい、
そのうえ旱害・水害・悪疫等々もまた相次いでこの国を襲った。

顕宗の時の大飢饉(1671年)は飢えと疫病とによって死んだものは、
前二者(秀吉軍・満州軍)との戦争による死亡者よりも多く、
飢民は墓を暴いて死体の衣をはぎとり、親は子を捨てて道端に行き倒れた。

また、この飢民は変じて火賊といわれる
群盗となるものもあるという状態であった。

こういう災害は李朝の復興期であった英祖の時代にもおこり、
その25年間に疫病による死者5~60万を数えたといわれ、
1812年には飢民の数は平安道90万、黄海道52万、江原道12万、
慶尚道92万、忠清道18万、全羅道69万にのぼった。

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『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 1998年 光文社

"生き地獄"を生きた李朝朝鮮の農民たち

フランス人宣教師のシャルル・ダレは、
当時の朝鮮王国のがんこな鎖国政策について、こう書いている。

「1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲い、
国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、
娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもいた。
北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮人は、
惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、
「どこの道にも死体が転がっている」

と訴えた。

しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、
中国や日本からの 食料買入れを許すよりも、
むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。」
(朝鮮事情・平凡社東洋文庫)

丁若[金+庸]著の『牧民心書』でも、
李朝社会の貪官汚吏の下であえぐ悲惨な朝鮮農民生活が書かれている。
(中略)
朝鮮農民の間には、
古来から「春窮、麦嶺越え難し」という古諺があるほどだが、
農民は収穫の5割以上が年貢として取り立てられてしまうし、
収穫した米も翌年3月の初めごろには全部、食いつくしてしまう。

そこで、じやがいもや麦のできる6月までの3ヵ月は、
春窮期といわれるのだ。
李朝以来、数百年にわたって朝鮮農民の背負う
歴史的な宿痾(長い間治らない病気)と言える。
それは人ロの9割を占める農民のうちの8割の小作人が、
保存食糧を冬季に食いつくし、麦の収穫期までの間、草の根、干し草、
どん栗、とちの実などで食いつないでいくことである。

極端な場合には、松の木の表皮と木質との間に
ある柔らかい白い部分をはぎとって食用にする。
あるいは五月になると麦の成熟するのを待ちきれず、
穂がまだ青く乳状であるものを、穂先だけ摘み取って粥にして食べたり、
せっぱつまれば種子籾まで食べつくしてしまう場合もある。

朝鮮の農書、農史を読むと中国の農民と酷似している。
旱害、水害、風害、ひょう害、霜害、病虫害が、
間断なく年中行事のように各地方を襲い、農は乞食、農奴同然である。

そのうえに、両班と悪吏に食い物にされ、小作農ほ、大なり小なり、
慢性的な食糧難と借金苦にあえいでいる。

だから「小作人は、地主のところで出来高の勘定をすまして帰るときには、
箒と箕(穀物をふるって、ちりやからをふりわける道具)を持って
家に帰るだけである。」という惨めな諺があるぐらいだ。
もちろん、それは大多数の農民に限らず、朝鮮の鉱山労働者も同じである。

『朝鮮旅行記』によれぱ、

「労働者の受け取る賃金はごくわずかで、元山(ウオンサン)にて
日本人へ金を売りさばく役人たちの懐に全てが入ってしまう。」

「勤労の民は非常に貧しくて、飢えている。」

「鉱山の近くに村があって、労働者らはそこで食事し、酒を買い、
給料には手を付けないで、ほとんど裸同然でうろついている。」

そもそも朝鮮半島は三南(忠清、慶尚、全羅)地方以外、
飢饉の多いところで、
最近の北朝鮮のような食糧危機は、決して特異な現象ではない。

たとえば、丙子胡乱後、毎年各地が旱魃で飢饉が続き、
崇徳3年、咸鏡道が飢饉で疫病、死者3300余、
黄海道に蝗害、三南地方まで凶作。
以来、3年間連続で飢饉が続いた。

朝鮮『仁祖実録』によれば、
「6年5月、3年凶作の後、八路が大旱、両季の麦が枯れ、四野が全て赤地、
これは誠に千古未曾有の大異変なり」、
8年3月にまた「飢饉に疫病、人民はほとんど死に絶えた」とまで述べている。

1671年の大飢饉では、
墓を暴いて屍体の衣を剥ぎ取り、親は子を道端に捨てたほどであった。

朝鮮総督府は、
李朝社会の惨状――乞食同然の農民と道端に行き倒れの無宿者の多さに驚き、
自作農の創出、小作制度の改善を重視している。
朝鮮半島の開発、社会改革に献身した日本人が少なくなかったことは、
韓国人、朝鮮人も知っておくべきではないだろうか。
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李氏朝鮮時代は大量の餓死者がでる国だった。
朝鮮半島の歴史で飢饉による餓死者が出なかったのは、
現在に至るまで日本統治時代だけである。

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日本によるわずか36年の植民地統治で米の生産量が倍増
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『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 1998年 光文社

◆朝鮮産米の生産性は、どれだけ向上したか

日本の農務省による『韓国土地農産調査報告』によれぱ、
1905年、農業生産力の高い朝鮮半島南部でさえ、
反当たりの平均収穫量は、9斗のみで、
当時の日本の平均反当たり平均収穫量、1石6斗の半分強であった。

だが、朝鮮総督府スタート当時、産米高が約1000万石前後であったのに対し、
その後年々産米高が増加し、18年後の昭和3年には1700万石を生産した。

「日帝36年」の朝鮮統治で、
米穀生産政策はもっとも朝鮮人に恩恵を施したものの一つであった。

有史以来、年産1000万石以上を一度も超えた事のなかった朝鮮産米生産量は、
昭和時代に入るとつねに2000万石を突披したのだ。
それは歴代総督が、食糧生産の充実と米穀生産性の向上に
並々ならぬ努力を重ね、土地改良、品種改良、耕法の改善、小作法の制定、
低利融資、米穀生産奨励などを行なって増産を重ね、
日本国内産米との競争によって品質向上に努めてきたからであろう。

朝鮮産米の対日輸出は、日本内地の食糧不足の救援に
大きな役割を果たしたことは事実であったが、
もう一方では日本農民の競争者となり、国内の米価低落に拍車をかけ、
内地の農家に脅成と圧迫を与えた。

とくに昭和5、6年の恐慌以後、いわゆる外地米統制問題として浮上し、
朝鮮総督府と日本政府との間の対立をもたらしたほど発展していた。

しかしながら、朝鮮近代史では、対日輸出による米価の高騰、
日本商人による流通の支配、朝鮮商人の従属化、買弁化を強要されたとか、
農民は正確な米穀の相場を知らないまま
米穀商人の言い値で売り渡すことを余儀なくされたので、
詐欺同然であるとか、さらに日本商人の高利貸的取奪が強められた……
という記述も多い。

いかなる時代でも米穀商人の「収奪」は存在するかもしれないが、
朝鮮総督府の米穀保護政策は、
決して現在の日本農水省の米穀保護政策に劣ることはない。

たとえぱ、米価の決定と米作農に対する生産奨励補助金の交付などは、
どう考えるべきだろうか。
1941年の米価設定では、生産者の手取り価格は、
1石で50円となるのに対し、消費者価格は43円に据え置きである。
この差額は政府負担となった。

43年には政府の標準買入れ価格は44円、
奨励金などを算入して1石当たり62円50銭にまで引き上げられた。
だが、標準売渡し価格は、43円であった。

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米は売ったのであり、略奪されたというのは言い掛かりである。
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『韓国・朝鮮と日本人』 若槻泰雄 1989年 原書房

日本政府は日本内地の米不足を補うため朝鮮で米を増産させ、
それを内地に移出した。
そのため、朝鮮人は満州から輸入した粟を
食べることを余儀なくされたと非難されている。

この主張には、朝鮮における米の増産以上に
朝鮮から日本への米の移出量が増加し、
また満州からの粟の輸入量が増大している統計が示されて、
一見説得力があるかのごとく見える。

『朝鮮の飢えによって、日本人の食料が充足された』のであって
産米増殖計画は、実は『米取り上げ政策』に他ならないというのである。
しかしながらこの批判は、仮に当たっているとしても15%ぐらいしか
正しいといえないであろう。というのは為政者として、
農民の所得水準を上げようとするとき最大の悩みは、
何を植えさせるべきかということである。
そして、その際考慮すべきことは、
農業生産的見地からその土地に何が適当かということと、
その生産物に対して、市場が存在するのかという農産物流通上の問題である。
米は朝鮮においては従来最も多く栽培されてきたものであって、
自然条件がこれに適し、農民はその技術に最も習熟している、
そして日本内地という市場はきわめて近い。
米の増産で図ったのは、
為政者として賢明というよりは当然の方針というべきである。

米を作って日本へ移出したことだけを責められるが、その見返りとして、
朝鮮の農民が現金収入を得たことを無視してはならない。
戦争中の食糧難の折り、内地におけると同様、
強権をもって朝鮮の農民から米を供出させた事実はある。

しかしこのことと、大正時代に始まった産米増産政策とは直接の関係はなく、
別個の問題として取り上げるべきであろう。

また朝鮮の農民は米を日本内地へ移出し、
自らは粟を食べる結果になったということも、
これ自体として非難に当たらない。

市場性のある、すなわち価格の高いものを販売し、
安いもので我慢するというのは、
農民の、少なくとも貧農のごく普通のパターンである。

米を作っていた日本の農民が、米はお祭りの時ぐらいしか食べず、
麦や稗(ひえ)を食べていたことはよく知られている。
『米を売り、粟を買って食料とした』という事実は、
自ら収穫したものだけを食べる自給自足段階にあった朝鮮農民が、
高いものを売り、安いものを買い、
その差額で食料以外のものを購入して生活水準を上げるという
市場生産に参加する農民に脱皮したことを意味するのである。

なお朝鮮農民が食料として『満州から粟を輸入した』というと、
はなはだしく困窮化した状況を示すものとしてとられやすいが、
北鮮ではもともと粟を食することが多く、
米よりも雑穀の栽培面積のほうがずっと多かったのである。

もう一つ付け加えねばならぬことは、朝鮮米の輸入を、
短期間の一時期を除き日本政府は望んでいなかったという事実である。
1918年の米騷動を契期に日本内地において米の不足が痛感され、
総督府は1920年から15年間に135万トンの増産計画にとりかかったのだが、
世界大戦後の不景気により、米価は下落の一途をたどった。

日本政府は米穀法を制定して価格維持に努力したのだが、
その効果は空しかった。
このような状況にもかかわらず、朝鮮で増産された米は日本内地に流入し、
ことに1927年の内地朝鮮を通ずる大豊作は米価をさらに下落させ、
内地の農民の窮迫化を招き、一大政治間題にまで発展した。
1931年には、米の価格は1919年の実に40%に崩落した。

このため昭和初年、朝鮮米の内地移入を制限しようとする農林省と、
これに猛反対する朝鮮総督府との間に激烈な論争がくり返されることになる。
このことは昭和農政史における著名な事件なのである。

米の増産を奨励したのは日本政府なのであるから、
その意味では自業自得であろうが、当時、日本政府が朝鮮米の移入を
奨励したり強制したりした事実はまったくないのであって、
事実はその逆なのである。
「朝鮮米の移入は、日本農民の犠牲によって行なわれた」
といっても過言ではない。

私は朝鮮農民の窮乏化を肯定しているのでもなければ、
当時の日本政府を弁護しようと意図しているのでもない。
ただ解放直後の感情的な反日非難の時期ならいざ知らず、
40年たった後にも、事実に反する批判を平然とくり返すものも、
それを黙って聞いているものも、将来の歴史家の軽蔑をかうであろうし、
また決して日韓(朝)両国民のためにならないと思われるのである。

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『歴史を偽造する韓国』 中川八洋 2002年 徳間書店

米を日本に移出したいと強引に総督府に"強要"したのは朝鮮人農家である。
日本は1912年の米騒動になったあの米不足の時を唯一の例外として、
日本国内の農家の保護のために朝鮮米の移入を制限することを試みていた。

このように、朝鮮米の移入をできるだけさせないとする日本政府と、
もっと移入しろと日本政府に迫る朝鮮総督府とが
凄まじい争いをしたのである。

それは、朝鮮人農家が、朝鮮の物価水準からして
破格の米代金を日本から手に入れるべく、
自らは粟や雑穀を食べて米を移出しようとしたのを
総督府が全面支援したためであった。

この朝鮮人の「米移出フィーバー」が朝鮮人全体の健康を害すると考え、
ある年には、総督府が、それにストップをかけ、
急いで満州その他から雑穀の大量輪入をした。

現に、日本統治下では米移出によって飢餓が生じたことは一度もない。
それを「飢餓輸出」とは、何という史実の歪曲であろうか。

朝鮮人の「過剰金欲主義による米移出フィーバー」というべきが、
唯一に正しい歴史である。

現に、この1920年代後半から朝鮮の人口は増えつづけ、
一人当りの国民所得も大幅に向上した。より豊かになった。

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貧しかった李朝時代の朝鮮人。日本統治時代になると、
農民は生産した米を高く売り、安い穀物を買って日々の食料とした。
食事の質を落として金を貯め、
それで家財道具を買い揃えて生活水準を上げていったのである。
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『朝鮮事情』 シャルル・ダレ 1874年 金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫

あなたは、みすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。
では、あなたの知っている最も貧しい茅屋を、
その美しさと強固さの程度をさらに落として想像してみて下さい。

するとそれが、みすぼらしい朝鮮の住まいについての、
ほとんど正確な姿となるでしょう。
一般的にいって、朝鮮人は藁ぶきの家に住んでいます。
…二階建ての家は、探してもむだです。
そのようなものを朝鮮人は知らないのです。
(中略)
次に家具について、簡単に一瞥しましょう。
まず寝台ですが…
朝鮮人はほとんど、茣蓙(ござ)の上で寝ます。
貧しい人々、換言すれば大多数の者は、
昼も夜も着ている同じ服のほかには掛けるものとてなく、
茣蓙の上で横になります。

少しでも金のある者は、蒲団(ふとん)というぜいたく品を持っています。
その他の家具ですが、貧しい人々は、もうその他に何も持っていません。
常民たちは、横にかかった棒を用意し、それに着換えを掛けておきます。

裕福な人たちは、いくつかの籠を木の棒に掛けたり屋根につるしたりします。
裕福な家には、かなり野暮ったい行李(こうり=竹や柳で編んだ箱)
があります。
学者や商人たちは、筆と墨、
それに巻紙が置いてある小さな書見台を傍らに置いて座っています。
若い婦人はチマ(民族衣装)をいれておく小さな黒いタンスを持っています。

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朝鮮の食糧不足は急激な人口増加に食糧増産が
追いつけないから起こったのである。(植民地36年で倍増)

『朝鮮総督府統計年報』 朝鮮総督府編
  
年次……年末常住人口

1910年…1312万8780人 (日韓併合年)
1915年…1595万7630人 
1920年…1691万6078人 
1925年…1854万3326人 
1930年…1968万5587人 
1935年…2124万8864人 
1940年…2295万4563人 
1944年…2512万0174人 (5月)

このほか日本内地や満州にも多くの朝鮮人がいました。

一人当りの米消費量が年ごとに減少している統計資料を持ち出して、
朝鮮から米を略奪した結果だという主張もありますが、
人口増で少食の幼年人口の割合が大幅に増加していくのですから、
朝鮮人一人当りの米消費量が減少するのは当然でした。
また、大旱魃で米収穫量が激減した年もありました。