日本が土地調査を進めて農民たちから農地を取り上げたというのは事実誤認
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『NOといえる教科書』 藤岡信勝・井沢元彦 平成10年 祥伝社

◆井沢

さてこの時代になると韓国の教科書の記述は一方的で、
これはある意味で予想されたことですが、
中でも見過ごせない点がいくつかありますから、見ていきましょう。

まず「土地の侵奪」という項です。
要するにここでは、日本はまず朝鮮人から土地を奪い取るために、
非常に複雑な登録方法を待ち出して強制した。

土地所有関係を近代的に整理するという理由をつけてのことだったけれども、
しかしその登録方法がむずかしいのと、
反日意識のため、登録しない農民が多かった。

登録されない土地は持ち主がいないということになって、
朝鮮総督府の所有になった。つまり、取り上げたということですね。
そういうやり方で日本が土地を奪っていったと書いてあるわけです。

◆藤岡

それは歴史の歪曲です。
どこが歪曲かといいますと、まず李朝においては、
農民の土地所有などというのは、まったく保障されてないわけです。
封建社会においてはヨーロッパでもそうでしたけれど、
近代的な意味での土地所有権というのは、はっきりしていないんです。

実は何重にも権利が重なっているということがあります。
日本の地祖改正にしても、土地の私的所有を認めて、
近代的な意味での土地所有権という慨念を確立したわけですが、
日本が韓国でやろうとしたこともまさにこれです。

つまり朝鮮総督府の最大の功績の一つは、
土地の所有権を認めたということです。

つまり農民に、耕作するそれぞれの土地の所有権を
公権力が保障したということなんですよ。
これは大きな功績です。そのことがまったく逆に語られているわけです。
たしかにその過程でいろんな混乱はあったでしょうし、
不平、不満も出たことでしょう。

◆井沢

たとえば権利が重層しているような場合ですね。
両方が争って、どちらか一方に決まれば、
もう一方の側としては、奪われたということになりますね。

◆藤岡

そういうことはあったとしても、全体として、
この施策は明らかに朝鮮の近代化に役だったはずです。

現実には隠田っていうのがたくさん見つかるわけですし、
持ち主不明な土地はたしかに総督府のものになったということはありますが、
その比率はごく微々たるものです。

山本有造氏の「日本植民地経済史研究」(名古屋大学出版会刊)によると、
こうした理由で総督府に接収された上地は約12万町歩、
また定められた期間に申告しなかったり、
所有権を証明する書類がないために接収された土地は2万7000町歩で、
合計14万7000町歩ということです。

1922年(大正11年)の時点で朝鮮における全耕地面債は450万町歩ですから、
土地調査により総督府が接収した土地は全耕地の3%ということになります。

ちなみに同年の日本人農業者所有土地面積は17万5000町歩、
東洋拓殖という国策会社の所有土地面債は8万町歩で、計25万5000町歩です。
これも全耕地面積の5.7%にしかなりません。

◆井沢

それがこの教科書では、
何かほとんどの土地を日本人が奪ったというように読めますね。

韓国の教科書ばかりか、日本の教科書も同様です。
ここで引いた教育出版のものでは
「土地調査を行い、その中で、多くの朝鮮人から土地をうばった」、

大阪書籍では
「韓国併合後の朝鮮では、日本が土地調査を進めて
農民たちから多くの耕地を取り上げ」と、
韓国に追従した表現になっていて、明らかに事実と違います。

◆井沢

なぜそのような教科書が文部省の検定をパスしたんでしょうかね。
そもそも近代的な土地所有権の確立されていない国は、
近代化できないんです。これは鉄則です。

ものを作るにしても何にしても、
まず土地の所有が確定してないとどうしようもありません。

総督府がこのことにまず最初に手をつけたというのは、当然のことです。
中国などは、いまだに土地所有制がはっきりしていない。

もっとも、朝鮮政府でも1895年に、
量田事業という土地調査を試みたことはありましたが中断していました。
このことは付け加えておいていいでしょう。

◆藤岡

黄文雄さんは、日本が行なった土地調査を
「総督統治の朝鮮に対する最大の功績の一つ」といっています。
(『中国・韓国の歴史歪曲』光文社刊)

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『中国・韓国の歴史歪曲』 黄文雄 1997年 光文社

たとえば、豊臣秀吉が天下統一後に行なった「太閤検地」は、
歴史上の画期的なできごとであった。

朝鮮総督府が行なった朝鮮の「土地調査」は、
朝鮮史ではよく「土地強奪」とされているが、
それはまったく次元の違う話である。

近代国家としては、土地所有権の確定と、税制の確立は
絶対に必要条件であるが、
それは朝鮮総督府の税源の確保だけが目的ではなく、
道路、鉄道、水力発電をはじめとするインフラ建設から
近代農業の経営等々にも、正確な検地は絶対に必要であったのだ。

近代国家の最低条件の一つとしては、
まず明確な領土領域状況の把握からはじまる。

朝鮮は2000年の歴史を持つというわりには、
農地の単位が曖昧にして原始的であった。

たとえば「一斗落ち」とか「一日耕」という田畑面積単位があっても、
単位計算が不明確で、農民の土地所有権も確立していなかった。

いつ国家に没収され、あるいは追い出されるかわからない。
土地は、たいてい圧倒的少数の貴族が所有し、
農民と所有者の間に幾層もの中間管理人が介在していた。

だから度量衡の統一、地権の確立、人口調査、インフラ整備には、
正確な土地調査が必要である。

朝群総督府は、スタートと同時に
土地の所有権、価格、地形地貌などの調査を開始し、1918年に完成をみた。
正確な検地は、総督統治の朝鮮に対する
最大の貢献の一つと数えるぺきであろう。

結果的には、多くの隠し田が発見された。
当初、約272万町歩の農地が、検地の後に433万町歩にもなった。

韓国人学者は「土地の強奪」と主張するが、
国策会社の「東洋拓殖」が買い占めた耕地面積は、約4%にすぎなかった。
半数以上の農民の土地所有権が確立されたことが、歴史的事実である。

台湾での日本資本の製糖会社が買い占めた10%以上の土地に比ぺても、
わずかであった。
それでも台湾においては「日帝の耕地強奪」という話を
耳にしたことはなかった。

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李朝時代の土地所有と利用状況
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『朝鮮』 金達寿 1958年 岩波新書

元来朝鮮には土地の近代的所有はなかった。

広大な土地が王室・宮院・官庁・書院・両班に属し、
全体として官人層が土地に対する支配力を持っていたが、
彼らは土地の管理をせずに収穫だけを取り、
管理は舎音という差配にまかせきりであり、
しかも舎音が何段にも重なって中間で搾取し、
収租の権利の主体すら明白でなかった。

一方、土地を耕す農民は代々土地を耕してはいても、
奴婢あるいは無権利な常民であって、
その土地を自己のものとするまでには成長していなかった。
土地所有そのものが未熟な状態にあったのである。

したがって土地所有を証明するに足る文書・記録は整わず、
面積の単位は区々であり、土地の境界もあいまいであった。

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李氏朝鮮は自作農だけの国ではなく、
多くが小作人でその割合はかなり高かった。
当然ながら小作人に土地所有が認められることはない。
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『図説 韓国の歴史』 1988年 金両基 河出書房新社

晋州民乱(1862年)当時この地域の農民の農地所有関係を見ると、
両班層や平民・賎民層の大部分が極端な零細農民であった。

剰余生産物の蓄積が可能な中農層は全農家の15.5%ていどで、
生計の維持すら不可能な貧農層が両班層では55.0%、
平民・賎民階層では72.5%にもなっていた。

かれらが農業生産を通して富を蓄積しようとすれば
地主の小作地を借用せずにはいられなかったことを知ることができる。

朝鮮王朝末期の自作農が3~4割で、
小作農が6~7割だったという農村調査報告は、
このような現象の延長線上にあることをたやすく知ることができる。

いわゆる三政紊乱(田税・軍役・還穀の乱れ)により
生計に脅威を受けるのとは別に、すでにかれらはその農地所有において
緊迫した状態に達していたことが知られるのである。
(中略)
乱の初期には封建官僚に対する攻撃が主であったが、
乱が進行するにつれて地主層が攻撃の対象となっていった事実も、
前に指摘した当時の土地所有関係において説明されうるだろう。

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朝鮮農業近代化に尽力して感謝された日本人
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『醜い韓国人』 朴泰赫 1993年 光文社

日本人は、農村振興運動を進めた。
日本統治時代以前の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、
水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、
河川地域が整備されて堤防が建設され、それまで恒常的だった水害から、
農地や農作可能な土地を守ることができるようになって、
新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。
この結果、日本人地主も増えた。

また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、
希望する農家ごとに子牛一頭を無料で与えてくれた。
与えたというよりは、貸したものだった。

牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、
成長した親牛は、無償で農民のものとなるという制度だった。

日本人は植林と治水に力を注いだ。
山を管理し、植林を進めるために、
総督府は山監(サンカン)という監督官を村に置いた。
また村人が、植林した山に入ることを禁じた。

私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山監や若い農村教導師は、
緑化について情熱にあふれていた。
真面目で、献身的な青年が多かった。

日本統治時代には、
そのせいではげ山だった山々が緑に覆われるようになった。
農村教導師は、農村振興運動の一環として農村の改革と生活改善のために、
村から村へと巡回していた。

私が小学校に入学する前に、満州事変が起こり、
やがて支那事変(日中戦争)に移っていったので、
村でも戦時色がしだいに感じられるようになっていった。
私は、父親に違れられて公会堂で農村教導師が
講演をするのをたぴたび聴いた。名調子の演説が多かった。
(中略)
あるいは金融組合による子牛を貸し出す制度についての講演会で、
別の農村教導師が「夕焼けほのぼのと燃えあがる空を背にして、
牛を連れて家に帰る美しい姿を目にしたときには、
感激の熱い涙が、ポタリポタリと落ちるのであります」と熱弁を振るった。

私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、
村の人々の大半が日本語を聞いて理解することができた。
そこで講話は、通訳なしに日本語で行なわれた。
人々は話に耳を傾けながら、しばしば韓国語で
「ケンジャンハンラサム」(立派な人だな)とつぶやいたり、
「ヨクシ、ヨクシ」(なるほど、なるほど)と相槌を打った。

また「カを合わせて朝鮮を蘇生させましょう!
今日の朝鮮では、山川草木が空からくれた天の恵みである雨水を貯え切れず、
海に流してしまっています。ああ、もったいない、もったいない。
そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。
木がもっと山に生い繁れば、天の息みの雨の40パーセントを、
飲み水や、水田の水として、または地下水として貯えることができます。
徹底的に山に木を蓄えようではありませんか。
水は生命の源であり、農耕の源なのです」といった話もあった。

日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、
燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。
日本統治時代には植林が進んだので、
多くの山々が緑に覆われるようになっていた。
私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。
しかし、独立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、
はげ山に戻ってしまった。

日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。
日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、
化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、
進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、
農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。

それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。
両班のように小作人(ソチクイン)である常人を
理不尽に苛めるようなことがなかったし、
不作のときには、小作料を安くしてくれた。
日本人地主のほうが、物わかりがよかった。

だから、日本人の地主は人気があった。
みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、
日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。
日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。

日本人が所有していた農地は、独立後に、
「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された。
しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の
基礎をつくったことは、否定できない。

私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。
そこで農作が思うようにできなかった水田地域を、
「べべーミ」(船が浮かぶような水田)と呼んでいた。

しかし、1911年(明治四十四年)、
川に堤防が築かれたために、水害から逃れることができた。
それからは「ベベーミ」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、
多収穫地として生まれ変わった。この話は、私の父親がしてくれた話である。

母はいつも韓服を着ていた。
しばしば李朝時代のころの生活が
いかに苦しいものだったのかを、話してくれた。
村には五つの農業用水池があった。
日本人が京釜線を敷くのにあたって、
池を掘って線路の盛り土をしたということを教えてくれたのも、母だった。

日本統治時代になってから、
村の人々はまともな生活を営むことがでぎるようになったのだった。
私の村では、独立運動系の人々を除けぱ、
ほとんどの村民が日本人を尊敬していたし、敬愛していたといってよかった。

村の人々のあいだで
「イルボンサラムン・キョンウカタルダ」
(日本人は、事理に明るい〈すべて正しい〉)という言葉がよく交わされた。

それでも村の人々が、
外国人である日本人に対して屈折した感情をいだいていたことも事実だった。
何といっても、韓国は外国の支配下にあったのだ。
日本人のもとで働いたり、日本人と結ぶことによって成功している者は、
陰で「アブチェビ」(ゴマスリ)と呼ばれた。
これにはたぶんに嫉妬心理も手伝っていただろう。

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土地の侵奪は、李朝時代に両班によって行われてきた悪弊の一つであった。
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『韓国は日本人がつくった ―朝鮮総督府の隠された真実―』
黄文雄 2002年 徳間書店

『両班こそが土地強奪の犯人』

「日帝」による朝鮮半島の土地強奪は、
「日帝七奪」のひとつとして数えられている。

よく言われる例は、日本人が小高い丘にのぼってあたりを見渡し、
土地を指さして手当たりしだい良田を奪っていったという話だ。

しかし、これはおそらく両班時代の「土地強奪」から連想して
日本人に罪をなすりつけたものであろう。

ダレ神父は「朝鮮事情」(1874年)のなかで
両班の土地強奪の実態を次のように述べている。

「両班は世界中でもっとも強力にして傲慢な階級である。
彼らが強奪に近い形で農民から田畑や家を買うときは、
ほとんどの場合、支払いなしですませてしまう。
しかも、この強盗行為を阻止できる守令(知事)は一人もいない。」

戦後、日本人が韓半島で行ったといわれる土地強奪は、
ほとんどがこの両班をモデルにしてでっちあげられた作り話である。

そもそも、日本とは法治国家である。
この大前提を、戦後の韓国知識人はどうやら忘れているようだ。

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『歴史民俗朝鮮漫談』 今村鞆 昭和三年(1928年) 南山吟社

回顧二十年前(今村鞆は韓国併合以前の統監府の時代からの官吏であった。)

◆新政の謳歌

従来官吏や両班やにイジメられて居つた良民は、日本官吏の配置と共に、
特に新警察のために、保護を受けて、その恩恵に浴する事となつたから、
その喜びは非常なものであった。
懸倒を解くとか、或は塗炭の苦より救ふといふ語があるが、
実際に於て此の語に丁度ハマルものであつた。

鳥致院付近の村で殺人犯があつた、
警察が往つた時には一部落逃亡して一人も居なかつた、
元は殺人があれば、郡守(地方役人)が大勢の人を引き連れ、
食ひ倒し、飲み倒し、かつ無辜(むこ(の民))を捕へ、
種々の誅求の種にしたからである、
しかして其時、告示をして、
旧来の如く人民に迷惑を及ぼさぬと諭して、安心して皆帰つた例がある。

或る処で農民が牛を盗まれ、その泥棒を警察署で捕へ、
牛を被害者に還付せんとした時に、
自分の牛に非ずとしてドーしても受取らなかつた。

もし受取れば数倍の金を後々より取らるると信じたからである、
トウトウ、牛を受取つても後より一文をも誅求せぬといふ証文を
署長に書かしてようやく牛を受取つて往つた、しかして不思議がつて居た。

自分が出張中忠州付近で両班が農民の山の中へ、
勝手に墓を作りその山を横占せんとし、紛擾をかもせる所へきかかり、
その両班に、決して右の如き非行は相成らぬ旨を言渡した、
その時一部落の人民は、五十人ばかりイクラ止めても喜んで送つて来た。

右の如き例は、枚挙に遑(いとま)の無い程あつた。
また裁判の公平土地調査の為め、所有権を侵害される事の無くなつた事等は、
民衆の大に喜んだ事であつた。

◆両班の動静

良民は新政を喜んだが、両班儒生の大多数は、新政に反対した。

時勢を解した両班は、従前の行動を改めたが、中には民衆の無知に乗じ、
依然として昔ながらの、横暴振を逞(たくまし)ふして居る者も多かつた。

下民の身分を省みず、両班の前で喫煙したとか、馬で乗打をしたとか、
いふ様な、良民が時勢に目醒めてする、
従来の習俗に反する行為を咎め立てて、罵倒殴打する、等の事により、
債務のカタに人や馬や財産を強収拉去する、
なほ甚だしきは、土地の境界不明に乗じ、良民の土地を侵犯するといふ、
慣行手段の悪事を公行して居たが、
被害人民は、なほ十分に官庁を信頼せずして、申告しなかった。

この土地侵略の悪風は、土地調査事業完成の為根絶し、
良民は該事業を、心から良制なりとして謳歌した。
(中略)
一体に悪両班は、自己の悪事が出来なくなりし為め、新政を呪詛して居た。

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『醜い韓国人』 朴泰赫 1993年 光文社

地方を治める官吏は、みな中央で任命されたうえで派遣された。
中央からやってきた役人たちは、地元に対して同情心を持っていなかった。

着任すると、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の政治を行こない、
自分の任期中に、できるかぎり税を取り立てるかたわら、
自分の懐を肥やそうとした。

平均的な任期が短いものだったので、
苛政(暴政)にいっそう拍車がかけられた。

そこで、日本のように地方ごとに産業が創出されて、
発展することがなかった。韓国の農民たちは働く意欲を失った。

李朝末期の韓国を訪れたカナダ人ジャーナリストのマッケンジーは、
「私は、充分に耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、
飢えに苦しむ農民のさまが理解できなかった。
「どうしてそれらの土地を耕さないのか」ときいたところ、
「耕せば耕すほど、税を取られるだけのことだ」という返事があった」
(「朝鮮の悲劇」 F.A .マッケンジー)と書いている。

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『韓国・朝鮮と日本人』 若槻泰雄 1989年 原書房

ある国ある地域を植民地にした宗主国にとっては、
土地に関する権利関係を整理することは最も重要な政策の一つである。

というのは、前近代的な社会においては、
土地所有権といった概念自体が確立しておらず、
各種の伝統的利用権などが錯雑として存在しているからである。

このような状態では、本国からの農民が土地を取得することは困難だ。
農業移民に限らず、不動産が安全に取引されなければ、
経済の発展は阻害されることになる。
それに、これらの後進地域では、土地の面積も境界も定かでないことが多い。

たとえば当時の朝鮮においては、田畑の面積は、
『一斗落ち』(一斗の種籾を播くほどの広さ)とか、
『一日耕』(農夫一人、牛一頭が一日間で耕すほどの広さ)
といった単位ともいえないような単位を用いていた。
これでは正確な課税もまた不可能となる。

これらの問題を解決するためには土地台帳を整備することが必要であり、
そのためにはまず土地調査事業を実施しなければならない。
そこでいずれの宗主国も、その植民地に権力を確立すると、
人口調査、度量衡の統一、貨幣の統一などとともに、
最初の仕事として土地調査に着手するわけである。
(中略)
李朝末期には、土地の圧倒的部分は貴族によって所有され、
彼らはソウルや地方都市に住み、完全に不在地主化していた。

耕作農民と所有者の間には幾層にも中間的な管理人が介在し、
小農は独立生産者というよりは農業労働者に近い状態で、
彼らの下に隷属していたといわれる。

そして耕す農民が土地を所有するという農民的土地所有権は確立しておらず、
いつでも国家の収用により没収される不安な状態にあった。

総督府の実施した土地調査事業は、少なくとも、
農民の50%余りに土地所有権を確立したことも事実なのである。
土地調査事業は、社会、経済の近代化のために絶対必要な施策であって、
この事業自体を何か悪政のようにいうのは
的を外れた批判といわねばならないだろう。

総督府は市街地、農地にひきつづき1918年、
林野調査部を設け、林野の所有者の境界の調査も実施した。

朝鮮の山林は、特別保護されている"封山・禁山"を除き、
無主公山と称し自由伐採が許されていた。
そのため山林は荒廃し、
ことに、公私有の権利関係があいまいに混在しており、
紛争や訴訟があとをたたなかったといわれる。

村有地など公共の所有地は誰もが申告しない場合も多いから、
そのような土地は無主地として国有財産に編入された。

日本においても明治維新後間もなく、同じ目的で土地調査事業が行なわれ、
土地所有権を確定し、地券を交付した。
その際、農民の伝統的耕作権が否定されたり、
入会地など誰も申請しない土地が国有地に繰りこまれる事態が生じ、
朝鮮の場合と同じような問題がおこった。

日本全体の林野面積の70%近くが国有地となった一つの理由は、
このような経緯から来ているのである。

日系第一の地主ともいうべき国策会社"東拓"(東洋拓殖株式会社)の
所有耕地面積は、最大のときでも朝鮮の総耕地の4%にすぎなかった。
(中略)東拓は朝鮮農民から土地を購入して、
これを日本からの農業移民に分譲することを
その主たる業務として発足したのであるが、
日本移民の成績がかんばしくなかったこともあり、
総督府は大正後半以降、同会社の土地買収を認めなくなった。
(中略)
また、農民に対し貸付を行ない、その元利の返済がないことを理由に
担保の土地を奪ったとして非難される東拓の金利は、
1933年には8%、1935年には6%と低下している。

資本が不足している植民地では一般に金利が高いのが普通であって、
インドでは月に20%といった金利さえ存在したことを考えると、
東拓の金利は借り手にとって著しく有利なものといえよう。

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『日本による朝鮮支配の40年』 1992年 姜在彦 朝日文庫

1918年、つまり土地調査事業の終わった年の統計によれば、

全農家の3.3%(9万386戸)が全耕地面積の50.4%を所有(地主)
全農家の37.6%(100万戸余り)が土地のない小作農
全農家の39.3%(104万戸余り)が自作兼小作農
全農家の19.6%(50万戸)が自作農

というような農家構成があらわれています。

全農家の3.3%、
戸数からすると約9万戸が全農地面積の半分以上を所有しているのです。

これは農家というよりも地主です。
農業経営にタッチせず、じっと座って小作料を得て生活する地主層なのです。

もちろんこの3.3パーセントには朝鮮人、日本人を含みます。
(中略)
小作料は建前としては5割ですが、実際には7割ぐらいになっていたのです。

ですから、朝鮮の全耕地面積の半分から生産される穀物の5割ないし7割が、
全農家の3.3パーセントにすぎない地主に集中するということなのです。

なぜ小作料が7割ぐらいにまでなったかというと、労働市場においても、
労働力を売る側に比べて買う側が少ない場合、売る側は安売りします。
それと同じで、農村でも他に転業できるような近代産業が少ないため、
土地にしがみつくしかない農家がたくさんいる。
おのずから小作権をめぐって小作農民間の競争が起こり、
常に地主が有利な立場に立つ。ですから地主の無理難題も通るわけです。
(中略)
農家全体の37.6%、戸数にして100万戸余りがまったく土地のない小作農です。
100万戸となると、1家族を5人とみて500万人になります。

当時、朝鮮の総人口は2000万人といわれていましたが、
そのなかの500万人がまったく土地を持たず、
地主の土地を借りて5割ないし7割の小作料を
納めなくてはならなかったわけです。

そのつぎは自作兼小作農です。
つまり若干は自分の土地があるけれど、
それでは足りないので、やはり地主の土地を借りなくてはならない。
これが39.3パーセント戸数にして104万戸余りです。
小作農と自作兼小作農を合わせると、全農家の77パーセントになります。

当時朝鮮にはまだ近代産業が発展していませんから、
ほぼ8割ないし9割の人口が農村の土地にしがみついて生活していました。

そしてそのなかの77パーセントが自分の土地を持たないか、
もっていても少ないために地主の土地を耕しながら、
収穫の半分ないし7割を収めていたのです。

1920年の1戸あたりの平均耕地面積は1.61町歩(水田0.57町歩、畑1.04町歩)
となっていますが、1町歩未満の農家が、
実に全農家の66.97パーセント(うち0.5町歩未満が47.38パーセント)
を占めています。

つまり大多数の農家が零細農であるうえに小作農である、
これでは人間が生きていること事態が奇蹟に近いのです。

こういうところでは、地主はだいたい高利貸しを兼ねているわけです。
ですから小作料プラス高利で二重に縛られた、
そういう層が77パーセントいたというのが現実です。

結局77パーセントの小作農および自作兼小作農というのは過剰人口なのです。
本当なら土地から離れて労働者になるべき人たちですが、
朝鮮では農村の過剰人口を吸収するような近代産業の発展が遅かったから、
いろいろな形でだぶついたのです。

こういう過剰人口の存在は、まず第一に小作条件を非常に悪くします。
小作農の立場は常に不利ですから、何とか土地を借りようと、
地主のあらゆる要求をそのまま聞き入れなくてはならなかった。

一つ例をあげましょう。
日本の場合でも中国の場合でも、小作争議というのは、
小作料があんまり高いから低くしろとか、
借金を免除しろ、こういうのが普通です。

ところが朝鮮の場合、小作争議の理由の部分は、
これは想像もつかないことですが、
地主による小作権移動に反対するということなのです。

つまり、地主は小作農家が気にくわなければ
いつでも小作権を取り上げてほかにやってしまう。
だから小作料が高いとか安いとかの問題以前に、
小作権を確保するために血眼になったのです。
土地にしがみつくしかほかに生活の方法がないものですから。
これが朝鮮農民の小作争議の特徴です。

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李朝時代の脆弱な農業基盤
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『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 1998年 光文社

朝鮮半島は、地形的には脊梁山脈が縦走しているので、
日本海側は、豆満江以外は、河川の流路が短く、
朝鮮海峡側に注ぐ河川には大河が多い。

また、有史以来、大規模な治山、治水は、
ほとんど行なわれておらず、自然のままで放置されていた。

雨季はだいたい7、8月ごろで、台風の来襲も同時期に集中しているので、
洪水と旱魃は、交互に朝鮮半島を襲い、その自然生態史をつくってきた。

わずか都邑付近には、石堤や土堤があるものの、
豪雨になると洪水が平原に氾濫し、
広漠たる平野が一夜にして湖沼と化してしまうこともたびたびあった。

日本の河川に比べて、流水量は2倍もあるのに対して、
渇水期の流水量は、日本の河用の10分の1から20分の1にすぎない。

朝鮮半島は、統監・総督府時代以前は、ソウルなどの一部の都市を除いて、
ほとんど自然のままの状態で荒廃していた。
李朝時代には慣行にしたがって、賦役を課し、わずかに都邑のみにおいて、
堤防護岸などの工事が行なわれていただけだった。

朝鮮半島には、灌漑を目的とする堰堤、
あるいは河水を堰き止める石木や土でつくられた
「ボク(上流に堰堤を築いて川の水を堰き止め、
これを水路によって下流地方の平野に導水する)というものは、
決して絶無ではなかった。
はるか1500年前の新羅時代に有名なペタコル池(堤)という
一大堰堤(岸長1800歩)があり、
歴代王朝に堰堤の修築もないわけではなかったが、李朝未期になると、
山河がしだいに荒廃し、堰堤らしいものは、廃堤の遺跡しか残っていない。
灌漑用水をめぐる紛争は古来絶えることがなかった。

李朝の歴史記録によれば、
堰提、ボクの施設数は朝鮮半島で2万4000を数えたといわれる。

しかし水利関係者が、「万石堤」と称する貯水池以外は、
ほとんどどこかに消え、荒れ果てている。
農事潅漑はたいてい腕力による。
流水の汲み上げに限る足踏み水車も、まれにしか見られなかった。
天水に頼り、農業はきわめて原始的である。

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「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社

日本人は、農村振興運動を進めた。
日本統治時代以前の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、
水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、
河川地域が整備されて堤防が建設され、それまで恒常的だった水害から、
農地や農作可能な土地を守ることができるようになって、
新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。
この結果、日本人地主も増えた。

また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、
希望する農家ごとに子牛一頭を無料で与えてくれた。
与えたというよりは、貸したものだった。

牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、
成長した親牛は、無償で農民のものとなるという制度だった。

日本人は植林と治水に力を注いだ。
山を管理し、植林を進めるために、
総督府は山監(サンカン)という監督官を村に置いた。
また村人が、植林した山に入ることを禁じた。

私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山監や若い農村教導師は、
緑化について情熱にあふれていた。
真面目で、献身的な青年が多かった。

日本統治時代には、
そのせいではげ山だった山々が緑に覆われるようになった。
農村教導師は、農村振興運動の一環として農村の改革と生活改善のために、
村から村へと巡回していた。

私が小学校に入学する前に、満州事変が起こり、
やがて支那事変(日中戦争)に移っていったので、
村でも戦時色がしだいに感じられるようになっていった。

私は、父親に違れられて公会堂で農村教導師が
講演をするのをたぴたび聴いた。名調子の演説が多かった。
(中略)
あるいは金融組合による子牛を貸し出す制度についての講演会で、
別の農村教導師が
「夕焼けほのぼのと燃えあがる空を背にして、
牛を連れて家に帰る美しい姿を目にしたときには、
感激の熱い涙が、ポタリポタリと落ちるのであります」と熱弁を振るった。

私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、
村の人々の大半が日本語を聞いて理解することができた。

そこで講話は、通訳なしに日本語で行なわれた。
人々は話に耳を傾けながら、しばしば韓国語で
「ケンジャンハンラサム」(立派な人だな)とつぶやいたり、
「ヨクシ、ヨクシ」(なるほど、なるほど)と相槌を打った。

また「カを合わせて朝鮮を蘇生させましょう!
今日の朝鮮では、山川草木が空からくれた天の恵みである雨水を
貯え切れず、海に流してしまっています。
ああ、もったいない、もったいない。
そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。
木がもっと山に生い繁れば、天の息みの雨の40パーセントを、飲み水や、
水田の水として、または地下水として貯えることができます。
徹底的に山に木を蓄えようではありませんか。
水は生命の源であり、農耕の源なのです」といった話もあった。

日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、
燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。
日本統治時代には植林が進んだので、
多くの山々が緑に覆われるようになっていた。
私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。
しかし、独立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、
はげ山に戻ってしまった。

日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。
日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、
化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、
進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、
農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。

それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。
両班のように小作人(ソチクイン)である常人を
理不尽に苛めるようなことがなかったし、
不作のときには、小作料を安くしてくれた。
日本人地主のほうが、物わかりがよかった。

だから、日本人の地主は人気があった。
みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、
日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。
日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。

日本人が所有していた農地は、
独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された。
しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、
否定できない。

私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。
そこで農作が思うようにできなかった水田地域を、
「べべーミ」(船が浮かぶような水田)と呼んでいた。

しかし、1911年(明治44年)、
川に堤防が築かれたために、水害から逃れることができた。
それからは「ベベーミ」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、
多収穫地として生まれ変わった。この話は、私の父親がしてくれた話である。

母はいつも韓服を着ていた。
しばしば李朝時代のころの生活がいかに苦しいものだったのかを、
話してくれた。
村には五つの農業用水池があった。日本人が京釜線を敷くのにあたって、
池を掘って線路の盛り土をしたということを教えてくれたのも、母だった。

日本統治時代になってから、
村の人々はまともな生活を営むことがでぎるようになったのだった。
私の村では、独立運動系の人々を除けぱ、
ほとんどの村民が日本人を尊敬していたし、敬愛していたといってよかった。
村の人々のあいだで「イルボンサラムン・キョンウカタルダ」
(日本人は、事理に明るい〈すべて正しい〉)という言葉がよく交わされた。

それでも村の人々が、外国人である日本人に対して
屈折した感情をいだいていたことも事実だった。
何といっても、韓国は外国の支配下にあったのだ。
日本人のもとで働いたり、日本人と結ぶことによって成功している者は、
陰で「アブチェビ」(ゴマスリ)と呼ばれた。
これにはたぶんに嫉妬心理も手伝っていただろう。

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『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 1998年 光文社

李朝時代の朝鮮農民は、あたかも「自然法則」に弄ばれるように、
4、5年に1回、巨大な旱魃、あるいは水害に襲われるので、
農業はきわめて不安定であり、農民は自然災害に対しても無抵抗であった。

政治に対してもそうであった。
すべての民衆はこの人力をはるかに超える恒常的自然災害に対しては、
いかんともしがたい天命として甘受しつづけてきた。
そこから生まれたのが民族全体の諦観(あきらめ)であろう。

農業というのは、自然の恩恵によって成り立っているもので、
ある程度、自然に左右されやすい。

しかし人力によって、その自然の猛威を克服しないかぎり、
農業は成り立たないし、進歩発展も不可能である。
農業がきわめて不安定、不確実であることを
歴史的事実として体得した農民は、資本の再投下にほとんど関心がなく、
先祖代々からもっぱら安易な略奪農法に明け暮れていた。

それが李朝時代の社会経済発展の停滞を招き、
自主独立の精神を喪失させるに至った歴史社会的背景であったともいわれる。
朝鮮の歴史も、そのような農業基盤のうえに成り立っていた。

新渡戸稲造(1862~1933、農政学者、教育者)が見た「枯死国朝鮮」とは、
自然の枯死だけでなく、
民族まで枯死に瀕していることを語っていたのであろうか。

李朝時代は旱魃、水害が繰り返し発生し、飢饉が日常化していた。
統監府以前の朝鮮社会は、
司法行政の綱紀が乱れ、教育、衛生はほとんど顧みられず、
河川、林野が荒廃し、道路、橋梁もなく、
港湾も船も車もほとんどなかった時代であった。

それから20年後の昭和初期に朝鮮を訪れたアメリカの碩学(せきがく)
ブルンナー博士は、朝鮮農村の実状を視察して、
地方の古老にも接して今昔を比較し、
天と地ほどの差が見られることに驚嘆した。

朝鮮総督府は人さらい、草賊(盗賊)暗躍、飢民あふれる李朝末期の社会に、
産業をおこし、治安を回復し、近代社会をつくったのであった。

1930年からの3年間、中国西北部の大飢饉では、餓死者1000万人、
1942年にはベンガルの飢饉で餓死者150万人が出た。
20世紀前半になっても、アジア大陸各地を相変わらず飢饉が襲い続けた。

しかし、朝鮮半島は、大旱魃に襲われたことがあったものの、
飢饉はもはや過去のものとなったのである。

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朝鮮の発展はインフラの整備だけで成し遂げれるものではなかった。
怠惰な民族性を改め勤勉な労働精神を涵養しなければ朝鮮の発展はなかった。
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『韓山紀行』 山路愛山
「近現代史のなかの日本と朝鮮」 山田昭次、高崎宗司 1991年 東京書籍より

(釜山にて)僕の目に映じたる韓人の労働者はすこぶるノン気至極なるもの
にして餒ゆれば(うゆれば=食糧がなくなって腹がへる)
すなわち起って労働に従事し、
わずか一日の口腹を肥やせばすなわち家に帰って眠らんことを思う。

物を蓄うるの念もなく、自己の情欲を改良するの希望もなく、
ほとんど豚小屋にひとしき汚穢(おわい)なる家に蟄居し、
その固陋(ころう)の風習を守りて少しも改むることを知らずという。

僕ひとたび釜山の地を踏んで実にただちに
韓国経営の容易の業にあらざるを知るなり。(明治37年(1904年)5月5日)

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朝鮮農民の手本となった日本農業移民
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『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 1998年 光文社

日本人の朝鮮半島に対する「土地強奪」間題としてよく批判されているのは、
日本人が小高い丘に登って見渡し、土地を指さして、
手当たりしだいに良田を奪っていったというものだ。
日本人は両班(ヤンバン)ではあるまいし、法治国家の国民である。
これほどの歴史歪曲があろうか。

朝鮮半島では、東拓をはじめその他の日本人地主は、
せいぜい一割にすぎなかった。
仮に「二束三文」で朝鮮半島の土地を手に入れた者がいたとしてもである。
(中略)
移住農民は、やがて米価の高騰により、生活状態が好転し、養豚、養鶏、
養蚕、果樹園の経営その他の多角経営で、地方に貢献していった。

そもそも日本農民は、朝鮮農民の粗放農業とは違い、
集約農業に慣れていたので、集約的、多角的経営によって定着し、
農民は生活が向上している。

日本農民が開拓した農地は、
決して言われているほどの良田ばかりではなかった。
開墾地は元は大河の遊水地、
交通不便にして少々塩害がある干拓地であったものが少なくなかった。

たとえば、江西干拓事業は3500町歩の干潟地、海岸草生地であった。
李完用の養孫から買った土地は、黄海道東部の山間にある高原地帯であった。
地味不良で有機物に乏しく、灌漑用水も上がらない、
水田にもならない不毛の地であった。

当時の東拓農業移民を含めて、日本の農業移民は、
朝鮮半島農民の美田、良田を強奪するよりも、朝鮮半島の農民が
一顧だにしなかった不毛の地の開墾や僻地の干拓を行なう者が多かった。

日本農民の朝鮮半島開拓は、数千年来の農耕国家には、
まったく考えられないほどの農業革命をまき起こしている。
農業移民の改良農法は、成績が上がれば朝鮮小作人のモデルとなり、
改良品種の試作によって、新品種、新農法が次から次へと普及していった。

さらに移住農民の養豚、養鶏、養蚕などの多角的経営、農事施設、農業指導、
勧業奨励などは、かつて小作人からの収奪しか知らない李朝時代には、
見られない光景であった。

当時の朝鮮人の気風としては、午前中に働いて、午後は寝て暮らす、
明日は明日の風が吹くというのが一般的であったからだ。
雨や雪の日の労働を忌み嫌い、
冬季になると室内に蟄居(家のなかに閉じこもり)して、
無為徒食する朝鮮農民にとって、日本農民が老若男女の差なく、
家族ぐるみの農事に従事し、
厳冬にも室内作業その他の副業に励むことは驚異であった。

そして日本農民の自カ更生に燃える生活意識と勤勉な農民気風が、
新風として朝鮮の農村に吹き渡った。

そもそも朝鮮人女性は屋外で労働する習慣がなく、屋内に隠れていて、
他人に顔を見せることを恥としていたが、
婦人の屋外勤労奨励により、少しずつ畑などで働くようになった。

日本農民の集約的農法は、労働力を結集して、換金作物から副業にまで及び、
自ら資産を増していくとともに地方をも潤していった。

日常必需品の急増によって地方経済をいっそう刺激し、
市場経済が賑わっていく。

しかも、僻地にまで組合や学校がつくられ、医療施設も普及し、
道踏、橋梁がつくられ、流通、運搬も盛んになった。

「土地の収奪・搾取」などと机上で論じている戦後の論埋とは違い、
日本の農民が朝鮮半島の農業近代化だけでなく、
朝鮮半島の近代市民社会の成熟に多大な貢献を果たしてきた。

その歴史的事実について、終戦後の学者たちは、
なぜ本格的な研究をしないのだろうか。まことに遣憾である。